北海道「日本一の赤字路線」の先にあった幻の鉄道 全線完成間近で中止された「美幸線」の未開業区間
いまの50~60代以上の世代なら、鉄道マニアでなくても「美幸線(びこうせん)」という鉄道路線の名前を覚えている人は比較的多いのではないだろうか。「日本一の赤字線」という二つ名とともに。
美幸線は北海道北部(道北)、名寄市の北にある美深町の宗谷本線・美深駅から東進し、同町内の仁宇布駅に至る21.2kmのローカル線だった。国鉄は100円の収入を得るために必要な経費(営業係数)を各線ごとに毎年度公表していたが、1970年代の美幸線は営業係数が数千のレベル。営業係数ランキングではワースト1位の「常連」だった。
赤字額そのものが大きかったわけではないが、廃止が心配されるレベルなのは確か。そこで美深町の長谷部秀見町長(当時)は「日本一の赤字線に乗って松山湿原(沿線の観光地)に行こう」とアピール。東京などの大都市におもむいて美幸線の切符を売りさばき、これが全国的にも報じられて話題になった。厳しい経営状況を逆手に取って宣伝する手法は、いまの銚子電鉄(千葉県)に通じるものがある。
路線名が体現する「未成線」
この美幸線、実は「日本一の赤字線」というだけでなく、幻に終わった未成線としての顔も持っている。開業した鉄道なのに幻とは矛盾しているが、その理由は「美幸」という名前が体現している。
美幸線の建設が本格的に考えられるようになったのは昭和戦前期の1930年代のこと。美深町とオホーツク海沿岸の枝幸町を結ぶ、全長約80kmの鉄道敷設を地元関係者が国に請願するようになった。線名の「美幸」は「美」深と枝「幸」を合成したものだ。1935年には、当時の国鉄線を運営していた鉄道省が現地調査を行った。



















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