北海道「日本一の赤字路線」の先にあった幻の鉄道 全線完成間近で中止された「美幸線」の未開業区間

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美幸線の建設運動や調査は戦争の影響で中断するが、終戦直後の1946年以降は美深町と歌登村、枝幸町による建設運動が再び活発になった。国鉄による現地調査も1950年に始まり、1953年には美深―枝幸間の鉄道が改正鉄道敷設法の予定線に追加されている。

まず第1期線として美深―仁宇布間を整備することになり、1958年に着工。1964年10月5日に開業した。並行する簡易軌道は美幸線の開業に先立ち1962年に運行を終了。翌1963年に廃止されている。

美幸線 美深―仁宇布間開通式
1964年10月5日、美深―仁宇布間の開通式(出典:美深町『美深町史』1971年)
【写真】わずか21年で廃止された美幸線。終点の仁宇布駅跡には廃止時の記念碑が

しかし、沿線は道内でも屈指の過疎地帯。輸送密度は1965年度が174人で、1970年代は80人前後で推移した。ちなみにJR北海道は2016年以降、輸送密度が200人未満の線区の廃止を進めているが、美幸線はそれより少なかった。

営業係数も開業初年度の1964年度で1108。柚木線(長崎県、1967年廃止)の3904と根北線(北海道、1970年廃止)の1575に次ぐ赤字ワースト3位だった。1965年度以降は800台に改善されたが、1970年代には再び1000を超えるように。1972年度の営業係数は3270でワースト1位になってしまった。

「廃止」と「建設」が並行して進む

枝幸寄りは1961年に着工が認可され、翌1962年に起工式が行われた。こうしたなかの1964年3月、日本鉄道建設公団(鉄道公団、現在の鉄道・運輸機構)が発足。美幸線の建設を引き継いだ。

このころの国鉄は都市間や大都市圏の輸送力増強に追われており、赤字経営が確実なローカル線の建設には消極的になっていた。そこで国は鉄道公団が国鉄ローカル線を建設し、国鉄に線路を無償で貸し付けて列車を運行させることにした。美幸線も1965年10月21日、鉄道公団が北見枝幸―志美宇丹間27.2kmで工事実施計画の認可を受け、着工している。

その一方で国鉄諮問委員会は1968年、国鉄の赤字路線のうち美幸線を含む83線、総延長2600km近くに及ぶローカル線を廃止して自動車輸送に切り替えるべきとした意見書を取りまとめた。過疎化や自動車交通の発達でローカル線の輸送量が減り、国鉄経営の負担になっているためとした。

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