「昭和の四季報」に刻まれたダイエーと松下の攻防… 《価格破壊》がメーカーに与えた衝撃

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
新潟県長岡市にあったダイエー長岡店(撮影:高橋孫一郎)

1970年代初頭、国内の大手電機メーカーに危機が到来した。引き金のひとつは当時の消費者から絶大な支持を受けたダイエーだった。大手電機メーカーの頂点に君臨していた松下電器産業とダイエーの争いは、戦後に形作られたメーカー中心の流通網が変化するきっかけになった。

東洋経済では、未電子化状態だった61~85年にかけての『会社四季報』の記事を、最新のAI-OCR技術でテキストデータ化した。この両社の対立関係やその後の物語は電子化したデータからもよく読み取れる。

70年代初頭:「価格破壊」の衝撃とメーカーに訪れた危機

これまでテキストデータとしての入手が困難であった、戦前期から戦後、高度経済成長期、バブル期にかけての『会社四季報』記事がテキストデータとして利用可能に。本記事に関連したさらに詳しいデータのほか『会社四季報』、企業、役員、大株主、地域、大学、小売店などの各種データを販売する「東洋経済データベースサービス」はこちら 。各種データのカスタマイズにも対応します

当時、割高な定価を通常の価格として表示して値引き価格であることを示すカラーテレビの販売手法(「カラー問題」)が表面化し、消費者団体による不買運動が広がった。

71年新春号の会社四季報は「消費者運動の主要対象が松下に向けられており、五月期の利益に大きくひびく公算」と、厳しい状況を伝える。

ダイエーの台頭による値下げや不買運動などによって、収益構造が大きく揺らいでいた。

『会社四季報』1971年新春号

一方で、ダイエーは71年に大阪証券取引所に上場、翌72年に東京証券取引所に上場を果たした。ニクソン・ショック以降の不況下にあっても「積極策」を掲げ、店舗網を拡大していた。そして72年新春号の四季報には「五万円台テレビの量産」との記載があった。

次ページ70年代後半にかけて:見え始めた価格破壊モデルの限界
関連記事
トピックボードAD
ビジネスの人気記事