「昭和の四季報」に刻まれたダイエーと松下の攻防… 《価格破壊》がメーカーに与えた衝撃
1970年代初頭、国内の大手電機メーカーに危機が到来した。引き金のひとつは当時の消費者から絶大な支持を受けたダイエーだった。大手電機メーカーの頂点に君臨していた松下電器産業とダイエーの争いは、戦後に形作られたメーカー中心の流通網が変化するきっかけになった。
東洋経済では、未電子化状態だった61~85年にかけての『会社四季報』の記事を、最新のAI-OCR技術でテキストデータ化した。この両社の対立関係やその後の物語は電子化したデータからもよく読み取れる。
70年代初頭:「価格破壊」の衝撃とメーカーに訪れた危機
当時、割高な定価を通常の価格として表示して値引き価格であることを示すカラーテレビの販売手法(「カラー問題」)が表面化し、消費者団体による不買運動が広がった。
71年新春号の会社四季報は「消費者運動の主要対象が松下に向けられており、五月期の利益に大きくひびく公算」と、厳しい状況を伝える。
ダイエーの台頭による値下げや不買運動などによって、収益構造が大きく揺らいでいた。
一方で、ダイエーは71年に大阪証券取引所に上場、翌72年に東京証券取引所に上場を果たした。ニクソン・ショック以降の不況下にあっても「積極策」を掲げ、店舗網を拡大していた。そして72年新春号の四季報には「五万円台テレビの量産」との記載があった。



















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