「昭和の四季報」に刻まれたダイエーと松下の攻防… 《価格破壊》がメーカーに与えた衝撃
また次の春号には「クラウンとの業務提携でカラーTVに続き"ブブ電卓"を二月中旬より発売」と書かれており、店舗網の拡大と商品ラインナップの拡充を急いでいた。
小売店による自社ブランドや、中堅メーカーと組んで低価格品を市場に投入する戦略は、当時の消費者から絶大な支持を集め、ダイエーの高成長を支えていったことがよく読み取れる。
この時期の攻防は、メーカーが守ってきた価格・流通の前提を、ダイエーがどこまで崩すのか、松下がどこまで防衛できるのかという構図だった。
70年代後半にかけて:見え始めた価格破壊モデルの限界
ただ、70年代の半ばを過ぎると、限界もみられるようになる。72年に小売業界の国内売上高で首位となったダイエーは、売上高1兆円という目標を掲げて出店攻勢を続ける。だが、76年春号の記述によると衣料品には伸び悩みがみられたほか、記事タイトルに「金利負担」とあるとおり、積極投資による金利負担が経営を圧迫し始めた。
その後の76年秋号には「積極拡大路線を軌道修正」という言葉が登場するなど、急成長モデルに陰りも見え始めたのだった。



















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