映画「国宝」で話題!歌舞伎はどのようにして誕生したのか? 「男装の出雲阿国が舞い、遊女歌舞伎も…」民衆を熱狂させた華やかで淫靡な世界

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映画界を代表するムーブメントとなった映画『国宝』。社会現象的なヒットになるのと同時に、本家の歌舞伎にも注目が集まっている(C)吉田修一/朝日新聞出版 (C)2025映画「国宝」製作委員会
2025年6月に公開された映画『国宝』(監督・李相日氏)。主演の吉沢亮さんが歌舞伎役者・立花喜久雄(花井東一郎)を演じた本作は、実写邦画興行収入で歴代1位になるなど、歴史に残るヒットとなりました。
映画を観て歌舞伎に興味を持った人も多いと思われますが、歌舞伎とは一体、どのようなものであり、その歴史はどういったものなのでしょうか。『国宝』を鑑賞し、歌舞伎における才能と血筋を巡る相剋、吉沢亮さんの鬼気迫る演技に惹きつけられたという歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。
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「かふきをとり」(歌舞伎踊)が史料に現れるのは…

歌舞伎は江戸時代初期には「かぶき」と書いていました。「歌舞伎」(うた・まい・わざと書いて歌舞伎)は後世の人が考えた当て字なのですが、それは真に適切な当て字だったと言うべきでしょう。

「かぶき」は「かぶく」(傾く)の連用形を名詞化したものだとされます。傾くとは、派手な衣装を好んだり、常軌を逸した行動をとることを言いました。そしてそのような行動をする者を「かぶき者」(傾奇者、歌舞伎者)と呼んだのです。 

では日本の代表的な古典演劇である歌舞伎はどのようにして生まれたのでしょうか。「かふきをとり」(歌舞伎踊)という用語が史料に現れるのは『慶長日件録』(江戸時代初期の明経博士・舟橋秀賢の日記。慶長年間の記録が現存する)であり、そこには女院(勧修寺晴子。後陽成天皇の生母)の御所において歌舞伎踊があったこと、踊ったのは出雲国の人であったことが記されています。それは慶長8年(1603)5月6日のことでした。

歌舞伎の元祖は出雲阿国という女性であったことはよく知られています。

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