映画「国宝」で話題!歌舞伎はどのようにして誕生したのか? 「男装の出雲阿国が舞い、遊女歌舞伎も…」民衆を熱狂させた華やかで淫靡な世界

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江戸時代初期の日記風の年代記『当代記』(慶長8年4月条)には、その頃、「カフキ躍」(歌舞伎踊)が流行し、その立役者が「出雲国神子女」(出雲国=現在の島根県東部の巫女)、その名は「国」だったことが記されています。

阿国の生没年については不明確ですが、その父は出雲国杵築の中村の里の鍛冶・中村三右衛門だったと言われています。

阿国は出雲から上洛し、都で踊りを人々に披露するわけですが、その様相は「異風なる男の真似をして」、刀・脇差・衣装以下も「異相」(普通とは様子が異なっていること)だったとのこと。

阿国は男装し派手な衣装をまとい「茶屋の女」と戯れる演技をし、それが都の貴賤の愛好するところとなったのでした。阿国一行は伏見城にも参上し、そこでたびたび踊ったと言います。

その後、歌舞伎の座が多くできて、彼らは江戸をはじめ諸国に下っていきますが、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠(家康の子)は一度も歌舞伎踊を観ることはなかったと諸書(『当代記』、『慶長見聞録案紙』)には記述されています。

京都の観光案内書にも歌舞伎に関する記載がある

『京童』という江戸時代初期に成立した京都の観光案内書にも「かぶき」(歌舞伎)に関する記載がありますが、歌舞伎のもとになったのは出雲国の巫女の舞であったとあります。

同書には、この巫女は仏号を唱え、鉦(かね)を鳴らし「念仏踊り」をした後に刀を横たえ、男の装束にて歌い舞ったと書かれています。

念仏踊りとは太鼓やカネなどを打ち鳴らし、節をつけて念仏などを唱えながら踊ることであり、平安時代中期の僧侶である空也上人が始め、鎌倉時代の僧侶で時宗の開祖である一遍が広めたとされます。

一遍による念仏踊りは数十人の僧侶たちが鉢などを叩きながら念仏を唱え自由に飛び跳ねるものでしたが、踊ることによって僧侶らは恍惚状態になり、仏と一体になる感覚を得ることができたと言われているのです。

念仏踊は僧侶のみならず観客をも熱狂、恍惚状態にさせたと言われています。阿国は自らの芸能の中に念仏踊りを取り入れ、先にその姿を見せることで人々の注目を集めようとしたのでしょう。

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