
平凡で幸福な人生を奪われた「あの日」
あの女に対する憎悪だけは、どうやっても拭えなかった。
吉田直人は、少年期に取っ組み合いの喧嘩をしたこともなければ、父母への反抗もほとんどなかった。結婚してからも、夫婦喧嘩は数えるほどだ。しかしあの女だけは別だった。
──私はあの女によって、平凡で幸福な人生を奪われたのだ。
あの日、直人はいつも通り、電車に揺られて会社へと向かっていた。土曜日の朝ゆえに、電車内はそれほど混み合ってはいない。直人はドア付近の壁に寄りかかって、早春の陽光を頬に受けつつ、窓の外の街並みを眺めていた。
直人は三十八歳の会社員で、社内で平均的な出世をして課長を務めていた。職場結婚をして、一昨年に娘の真奈(まな)が生まれ、つまりは平凡ゆえに幸福な人生を享受していた。今でこそ東京のマンション暮らしだが、生まれは長野の田舎で、両親は葡萄農園を営んでいる。
親父は腰を悪くしたらしく、家業を続けられるのもあと数年だろうな、などと弱音をもらしていた。吉田果樹園が閉業するのは寂しいが、これも時代の流れと諦めるしかない。




















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