「商人に握られた権力を幕府が取り返す」 大河【べらぼう】老中・松平定信が文武奨励策を推進した納得のワケ
小禄の御家人のなかには、住所も定まらず、衣服はあっても「大小(大刀と小刀)」を持たない者もいました。そうした嘆かわしい武士を何とかしなければいけないということで、武術の上覧(将軍の御前で武術を披露)や学問試験を行い、秀でた者を表彰するという計画が立てられます。
また、住所が定まらずブラブラしている御家人を甲府・駿府・鎌倉の地に集め、収容するプランも出されます(単に収容するだけでなく、学問所などで教育)。
定信の寛政の改革は「ぶんぶ(文武)というて、寝てもいられず」(大田南畝の狂歌)と皮肉られますが、文武奨励をやかましく言ったのには前述のような理由があったのです。
凶年が打ち続いたならば、幕府も民衆も破滅する
天明7年(1787)、定信は老中に就任しますが、そのとき、ある人から「もしも、今年も凶年(凶作の年)だったら、どうするのか」との質問を受けたようです。
定信はそれに対し「その場合、他に方法はない。ただ、その信を守って、民衆と共に(我々も)餓死するより他はないだろう。天下の米穀が尽き果てたならば、天下と共に倒れるべし」と回答したとのこと(定信の自叙伝『宇下人言』)。
凶年が打ち続いたならば、幕府も民衆も破滅するという定信の危機感がにじみ出ています。ですが、案に相違して、幸運なことに、天明7年は豊作でした。すると、喉元すぎれば何とやらで、人心は緩みます。今年は豊作のようだとの見通しにより、救済措置も一時しのぎ的なものでいいと役人らは考えていたようです。
定信は凶作が続いた要因の一つを、郷蔵(凶作に備えて米穀を蓄えておく蔵)に、10年以上前より、米ではなく金を蓄えていたことにあると見なしていました。定信からしたら、それは「上下ともに不慮の備え薄」いものでした。米穀が乏しいときに万が一、台風や洪水が発生したら、どうするのか。再び、全国で打ちこわしが発生することになりかねない。そうなると、混乱に乗じて、長崎や対馬、松前の辺りに侵攻してくる外国もいるかもしれない。飢饉の際の救済も米穀が乏しくては、どうしようもない。武威とともに恩恵的政策を実行しなければならないというのが定信の考えでした。


















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