巨大フェリーが目指すは「志布志市志布志町志布志」 やや中途半端なターミナル港発着で「さんふらわあ さつま・きりしま」がしっかり儲けている訳

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なお、関西~九州方面のフェリーは、「さんふらわあ」が大分・別府・志布志、ほか福岡県・新門司港には「名門大洋フェリー」「阪九フェリー」、宮崎市北部からは「宮崎カーフェリー」が発着。ほか貨物船・RORO船(トラック・トレーラーが自走で入れる貨物船)などの航路があり、さまざまな貨物が運ばれている。

もし何十台ものトラックをいっせいに運べるフェリー・貨物船がないと、トラックはその分1000km以上も走行する必要があり、「働き方改革」の関係で1行程の移動に2人・3人のドライバーが必要となる。しかし今のご時世、そこまで大型運転手が集まるわけもなく……フェリーや船運は、トラックの走行を最小限に抑えながら首都圏に多量の食糧を供給することで「肉・魚・野菜などが普通に安く買える世の中の維持」に貢献しているのだ。この事実は、もっと知られるべきだろう。

こうして「さんふらわあ」は、街としては小規模な「志布志港」(志布志市志布志町志布志)に発着することで、旅客・貨物ともに順調に利用されている。しかし、1991年までは鹿児島市に寄港しており、それなりに利用者もいたようだ。

なぜ「さんふらわあ」は鹿児島港を去り、志布志港に拠点を移したのか?歴史をたどっていきたい。ただ、実はこの航路は何度も運航事業者が変わっており、いまの「商船三井さんふらわあ」でも一部詳細がわからない部分があるようで……今の「さんふらわあ さつま・きりしま」のにぎわいからは想像もつかない、苦難の歴史をたどってみよう。

「太陽に守られて」走る「さんふらわあ」 オイルショックを潜り抜けた「志布志航路の歴史」

初代「さんふらわあ」模型
初代「さんふらわあ」のモデルシップ。大阪市・トレードセンター内に展示されている(筆者撮影)

「さんふらわあ」が大阪~鹿児島間で就航した1974年当時、各地では「太平洋フェリー」(1973年に現在の「名古屋~仙台~苫小牧」就航)、「名門フェリー」「大洋フェリー」(1972年・1973年就航。現在の「名門大洋フェリー」)など、長距離フェリーの就航が、各地で相次いでいた。

長距離フェリーにかつてない追い風が吹く中、鹿児島にフェリーを就航させるべく動いたのは、県出身の実業家・中川喜次郎氏であった。氏が率いる照国海運のグループとして、1970年に資本金3億円で「日本高速フェリー」を設立、豪華レストラン・プールなどを備えた「さんふらわあ5姉妹」(5隻のフェリー。船の数え方は一般に女性名詞が使われる)によって、1972年には名古屋~鹿児島港が、2年後には大阪港~鹿児島港間の航路が就航した。

いまも「さんふらわあ」のシンボルである真っ赤な太陽は当時から船体に描かれ、どこから眺めていても目立つ「さんふらわあ」は、長距離フェリーの象徴として、一躍全国にその名を馳せた。テレビ・映画などに登場する機会も多く、映画「ゴジラ対メカゴジラ」「仮面ライダーV3」テレビ「秘密戦隊ゴレンジャー」などで「さんふらわあ」の存在を知ったという方も多いだろう。

ところが運悪く、ほぼ同じタイミングで「オイルショック」が到来。度を越えた燃料費の高騰によって採算は一挙に悪化し、1975年には親会社の照国海運が430億円もの負債を抱えて倒産してしまう。日本高速フェリーはあらたに「来島どっく」グループ入りによって生き残るものの、採算の見通しが立たなくなった名古屋~鹿児島航路は1978年に消滅。一方で大阪~鹿児島航路は1977年に志布志寄港を開始、経営母体が「ブルーハイウェイライン」にかわりつつも、辛うじて生き残ってきた。

「さんふらわあ」鹿児島港が寄港する場合は、大幅に遠回りする必要があった(地理院地図より筆者加工)
海上から眺める桜島
海上から眺める桜島。「鴨池・垂水フェリー」船上から(筆者撮影)
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