「心を病めてよかったね」産業医が放つ言葉の真意。「生きづらさ」を感じるのは自分が弱いからではなく"生きる力"の発露である

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元来、人間は社会的な生き物です。社会に所属し、社会に居場所をつくって生きています。そのために必要なのが、ある程度の社会への適応です。社会の秩序を守るために法やルールを守り、周りの人たちと助け合うことで、私たちは社会に居場所を得ています。

社会の寛容度が著しく低下した昨今は、社会の規範や価値観、常識、あるいは社会の空気のようなものから少しでも外れようものなら、居場所は危うくなります。

例えば、社会のスピードについていけない人は取り残される、おかしいと思うことを「おかしい」と正直に言えば、KYと後ろ指をさされる。ありのままの自分でいようとすると、社会の中で孤立しかねないのです。

最近は、職場におけるコミュニケーション能力がものすごく重視されていて、それが同調圧力として働く傾向も見受けられます。

例えば、マルチタスクが苦手な人が静かに仕事に集中していると、周囲から「あの人はあんまりコミュニケーションを取らない人だよね」と言われたり、怒っているんじゃないか、機嫌が悪いんじゃないか、と勘違いされたりするので、無言で仕事ができない。実際にそのような悩みを聞くこともあります。

静かにしていたい人にも積極的に交流することを強制されると、その職場はその人にとって安全で安心な場ではなくなってしまいます。人間にとって孤立は、生存が脅かされるほどの恐怖体験です。社会で孤立したくないために、自分の気持ちを隠して周りに迎合したり、自分を二の次にして相手の要求に応えたりすることもあるでしょう。

このように、寛容さを失った不健全な社会では、社会性を過剰に発揮して社会や人間関係に適応しようとすることが、どうしても起こりがちです。社会や人間関係に対する過剰適応は、自分をありのままの自分とはかけ離れた状態に追いやり、自己不一致感を生みます。

自分自身とズレが生じていて、本当の自分はもっと別にあるような、自分のことがよくわからないような、モヤモヤした感じです。これが続けば自分がどうしたいのかわからなくなって、ストレスや不安を感じやすくなり、人間関係にも支障が出るでしょう。これが生きづらさの正体と考えられるのです。

自分を責める人々

生きづらさを感じるのは個人の脆弱さや自己肯定感の低さが原因ではなく、他者や社会との関係性の中で生じるものです。不健全な環境に置かれたら、生きづらさやメンタル不調につながるのは当然です。

でも不健全な環境に問題があるにもかかわらず、いまだに多くの人が、「気持ちが折れたのは自分のメンタルが弱いからだ」と自分を責めています。新自由主義の広がりによる自己責任論と、努力すれば万事うまくいくと考える努力至上主義を背景に、「努力しなかった自分が悪い」と罪悪感を植えつけられやすい状況があるからです。

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