GHQにさんざん煮え湯を飲まされた「日本国憲法」だったが…それでも"いいものはいい。素直に受け入れるべき"と言えた白洲次郎の胆力
GHQが英語で作ったものを日本語に翻訳し閣僚に見せ、それを修正して、また英語に翻訳し、GHQに見てもらう。そして、GHQが修正した点を、また日本語に翻訳し、確認する。何度かキャッチボールをしたのち、最終版ができた。
1946(昭和21)年3月7日に「憲法改正草案要綱」が公表された。民政局のマッカーサー草案が提案されてから23 日目、3週間と2日である。この日は、極東委員会が開かれる予定で、ここで日本の憲法制定について議題に上がる可能性があった。憲法制定が進んでいることをアピールできる。
一夜でファイナル・ドラフトを作った次郎たち
最後のファイナル・ドラフトの日本語版を完成させるのに使った時間はたった一夜。場所は第一生命ビルの民政局の会議室。
その場にいたのは、民政局側がケーディス、通訳のシロタなど。日本側は法制局の佐藤達夫第一部長と白洲次郎、そして屈指の英語力を持つ外務省の小畑薫良、長谷川元吉である。
朝から、GHQの民政局と憲法草案についてやり取りしていた彼ら4人だが、すでに午後6時になっていた。少しでもマッカーサー草案に政府の意向を反映させようとする日本側と、修正にほとんど応じない民政局の間で、徒労の時間が流れていった。4人ともほとんど休憩のない作業にへとへとになっていた。
特に佐藤はかわいそうであった。本来、ここにいるべきは、日本側の憲法草案の責任者である松本烝治であったが、彼は修正をめぐって民政局と激論になってしまい、そのまま退席してしまった。
佐藤は、松本から少し手伝ってくれと言われて、同席しただけだったが、彼が法案を作成するハメになってしまった。
次郎も、英語が堪能だったから、翻訳とGHQ民政局との折衝を兼ねて、とどまることにした。決して責任を取るべき立場ではなかったが、彼らを残して、いなくなるわけにはいかない。最後まで残ることに決めた。
日本国憲法のファイナル・ドラフトができたときに携わっていたのは、憲法学者でもない4人だったのだ。