消える"日本一のマンモス女子大"!「武庫川女子大」の共学化が映し出す歴史の因果
名古屋、京都、大阪とは微妙に違う女子大生文化圏が形成されていた背景には、「阪神間モダニズム」という地域文化の影響が大きいといえる。これは、神戸市東部の御影、住吉、岡本界隈から芦屋、西宮、宝塚などの一帯で、明治後期から昭和初期(第2次世界大戦まで)にかけて形成された地域文化だ。大阪の(超)富裕層文化と神戸港から入ってきた欧米文化が融合した、独自のライフスタイルを特徴とする。
小林一三氏が率いた阪急電鉄の沿線開発によって発展したこの地域には、大阪市内の公害や過密な都市環境を避けるため、多くの富裕層(財界人・商人)が移り住んだ。住友財閥の住友吉左衛門氏、野村財閥の野村徳七氏、武田薬品工業の武田長兵衛氏、朝日新聞社創業者の村山龍平氏、倉敷紡績(クラボウ)の2代目社長を務め、倉敷絹織(現クラレ)を創業、さらに中国銀行や中国電力の礎を築いた地方財閥の当主である大原孫三郎氏なども居を構えている。
大原邸の南側には、安宅産業の創業者・安宅弥吉邸もあった。彼らは欧米風の邸宅を建て、文化サロンを開いた。そして、芸術家、建築家、文学者や知識人たちと交流し、芸術や文学の発展を支えた。
大原孫三郎氏は洋画家・児島虎次郎氏のパトロンとなり、収集させた西洋美術などを展示するため、1930年に大原美術館(岡山県倉敷市)を開館した。孫の大原謙一郎氏(名誉館長)は「じいさん(孫三郎氏)は、文化の担い手であった実業家たちと交流する中で、阪神間モダニズムの影響を強く受けたようだ」と語っている。
こうした阪神間モダニズムは、女学校に通う「お嬢様」に影響を与え、「阪神間お嬢様モダニズム」を育んだ。彼女たちの様子は、東京から移住した作家・谷崎潤一郎氏の『細雪』に描かれている。作中の蒔岡家の四姉妹、とくに自由で活動的な四女・妙子と伝統を重んじる三女・雪子の対比は、現代の阪神間の女子大生にも見られる自立志向と保守的なタイプの両方の存在を表現している。
ニュートラを生んだ阪神間モダニズム
このような現代史的背景について、関西でも知らない人は意外に多い。女子大生どころか、その両親、祖父母でさえ例外ではない。ところが、阪神間の女子大生は知らないうちに阪神間モダニズムの影響を受けていた。
1970年代後半から1980年代前半にかけて、ニュートラ(ニュー・トラディショナル)と呼ばれた神戸ファッションが注目され、女性ファッション誌で彼女たちが読者モデルとしてよく登場していた。このようなファッショナブルな雰囲気に支えられた阪神間の女子大人気は確かに存在した。
ただ、時代は令和になり、こうしたキラキラ感覚の女子大がだんだん話題にならなくなってきた。この動きは、昨今の経営問題と無関係ではない。
(中編に続く)
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