研究者の間でもいまだに定説と呼べる一致を見ない"古代史の謎" 朝鮮半島に古代日本の「植民地支配」はあったのか

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「宝有る国」、「金・銀・彩色、多く在る」新羅という国を、「もしよく吾を祭りたまへはば、曾て刃を血塗らずして、その国必ず服(まつろ)ひなむ。(もし丁重に私を尊び祭れば、少しも血を流すことなくその国は服属してくるであろう。)」との神託が下されるが、これを仲哀天皇は信じず、あくる日に崩御してしまう。

そのあとを承けて胎中にのちの応神天皇を宿した神功皇后が征討を果たすのである。

『古事記』と同じく、風の神は風を起こし、海の神は波を揚げ、海中の大魚は悉く浮かび上がり、皇后の軍船を扶けたという。そのおかげで労せずして新羅まで到着し、戦さらしい戦さもなく新羅王は服属、人質の供出と毎年の朝貢を約束した。

新羅王を殺しては、と勧めた者もいたというが、自ら降伏してきた者を殺してはならぬと皇后は言ったという。その報せを聞いた百済王と高麗(高句麗)王も、この時自ら服属してきた。

『古事記』にないのは、高句麗の王までも服属したと伝えているところだ。両国の王は、「自ら営の外に来たりて叩頭(たっとう)して申して曰く「今より以後、長く西蕃(せいばん)と称しつつ、朝貢すること絶たじ。」と頭を下げた。

こうして朝廷の「内官家(うちつみやけ)」(朝貢国という意味であろう)が定められた。これが所謂「三韓(高句麗・百済・新羅)」の起源だという。

『日本書紀』の新羅と百済の伝承

この記事より以降、『日本書紀』では対新羅、対百済との外交関係に関する記事がにわかに増える(ここは『古事記』と大いに異なる)。

新羅王が、護送役の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を騙して人質として倭に差し出した王族を逃したが、これに怒った襲津彦は新羅の村を襲い、捕虜を倭に連れ帰ったことなどが語られている(『日本書紀』神功皇后摂政三年条)。

一度服属したはずの新羅は、その後しばしば倭国に離反する構えを見せる狡猾な国として描かれている。

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