研究者の間でもいまだに定説と呼べる一致を見ない"古代史の謎" 朝鮮半島に古代日本の「植民地支配」はあったのか
百済との関係は、新羅よりは良好だったようにみえる。
倭国から「斯麻宿禰(しまのすくね)」という使者が、伽耶の卓淳(とくじゅん)という小国に派遣された。そこで彼は、この国の王から前に百済から倭国に送られた使者らが道を間違えて我が国に来てしまい、やがて帰国して行ったと教えられた。
これをきっかけに百済と倭国は卓淳の仲介で国交を結び、百済王は「斯麻宿禰」に絹織物、角の弓矢、そして鉄鋌四十枚を贈ったという(『日本書紀』神功皇后摂政四十六年条)。
新羅と百済の「確執」の起源
以後、新羅と百済2国は倭国に貢物(こうもつ)を贈るようになったというが、神功皇后摂政四十七年四月条にこんな記事がある。
2国の贈る貢物にずいぶん差があり、新羅の送る品が「珍異なものが甚だ多」いのに対して百済の品は「少なく賤しく不良」であった。
このわけを問うと、使者は実は新羅は「我が貢物を奪って己の国の貢物とし、新羅の賤しき物を相易えて、臣の国の貢物」としている。しかもこのことを漏らしたら殺すぞと脅されていたのだった。
こうして、けしからぬ新羅を再び征討しようということになり、倭国から軍が派遣され、新羅を破ったという。このときに合わせて「加羅七国」と呼ばれた「比自本(ひじほ)・南加羅(ありひしのから)・㖨国(とくのくに)・安羅(あら)・多羅・卓淳・加羅七国」を平定したと伝える。
この恩に感謝した百済王は、「今より千秋万歳に絶ゆる事無く無窮に常に西蕃と称して春秋に朝貢せん(今よりのちは千年万年と絶えることなく、永遠に常に西蕃と称して春と秋に朝貢いたしましょう)」と誓ったという。
これらの伝承がすべて史実であるとは言い難いが、おおよそ、このころ倭国と百済が同盟関係のようなものを結んだことは確からしい。このことは「泰和四年」銘を持つ石上神宮(いそのかみじんぐう)の七支刀の銘文からもうかがわれる。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら