「新聞は終わった」と言われるが……。読者シェア7割を維持する《地方新聞の勝ち筋》、家業を継いだ彼女の機転と地方で働く充実感

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全国紙やテレビでは、家族を失った被災者が悲しみに暮れる様子が連日放送されていたが、東海新報はマスメディアの報道と一線を画し、遺族の取材で紙面を制作したのは震災から1年後だった。

取材中の鈴木さん
取材だけでなく撮影も自身でやる。社長就任後も現場に(写真:鈴木さん提供)

甚大な被害の出た陸前高田市では、復興事業が始まるとともに、後に「復興のシンボル」となる「奇跡の一本松」の保存や市庁舎の建設場所を巡って市民を二分する議論が巻き起こった。

陸前高田市を担当していた鈴木さんはじめ東海新報の記者たちは、意見が異なる市民同士が歩み寄るきっかけとなる報道を意識してきたという。

「震災を生き抜き、これからもここで生きていこうとする人たちがいがみあわず相手の言い分にも耳を傾けてほしい」

その思いは社員皆と共有してきたと鈴木さんは振り返る。

事業承継準備中に父が急逝し、社長に就任

記者の仕事に邁進してきた鈴木さんのキャリアの次なる転機は、父・英彦さんの急逝だった。英彦さんが80歳になるタイミングで事業承継する準備を進めていた最中の訃報で、予定より2年前倒しで代表取締役社長に就任することになった。

それまでは社員から「英里ちゃん」「英里さん」と呼ばれ、編集局に机を並べてきたが、祖父と父が長年使ってきた社長室兼応接室で自身も仕事をするようになり、「社長」と呼ばれるようになった。

鈴木さんが社長になったのを機に、それまではなかった部局横断の会議が始まり、20代30代の社員による“若手の会”の活動も始まった。

「『社長に許可を取らなきゃ』ではなく、『何か失敗してもこの人が守ってくれる』と社員たちに思ってもらえる経営者になりたい」という鈴木さん。「今のところ、社員から耳が痛い指摘やダメ出しをしてもらえてありがたい」と笑う。

イベントに参加する鈴木さん
高校生への講演や地域イベントへの参加で「読者との距離をさらに近づけたい」と語る(写真:鈴木さん提供)
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