「新聞は終わった」と言われるが……。読者シェア7割を維持する《地方新聞の勝ち筋》、家業を継いだ彼女の機転と地方で働く充実感
大船渡市で生まれた鈴木さんは 、兄2人の末っ子長女。12歳離れた長男は「俺は絶対に(新聞社の経営は)やらない」と言い、次男は知的障がいがあったため、鈴木さんは幼少のころから「自分が東海新報を継ぐ」、そう思ってきたという。

「4歳の時には『私が跡を継ぐ』と祖父や父に言っていたのを憶えています。小さなころから、地域の人たちは皆、東海新報を読んでいて、親しみを持ってくれていることが誇らしかったんです」
母から東京で「視野を広げて」
三陸の海と山に囲まれた大船渡で育ち、野山を駆け回って木の実を集めたり、花を摘んだりするのが大好きだった鈴木さん。
高校時代も「岩手が好き過ぎて」、岩手県内の大学への進学を考えていたが、母親から「もっと視野を広げた方がいい」と上京を勧められ、東京の立教大学へ。結果、関東出身者の多い立教大学でのカルチャーショックが、鈴木さんの地元への愛着をより熱いものにした。
鈴木さんにとっては当たり前だった大船渡の年中行事や郷土芸能といった文化は、すでに日本の多くの地域で失われており、「地元にあったものは実はとても特別で価値のあるものなんじゃないか」と気づいたのだ。一度地元を離れたからこそ、地域の魅力を伝えたいという意識が芽生えた。
卒業後、いずれは東海新報社を継ぐと決めてはいたものの、父・英彦さんもまだまだ働き盛り。憧れていた雑誌編集者の仕事をやってみたいと東京の出版社に就職。住宅誌やアニメ雑誌の編集者として経験を積んだ。
東京で公私ともに充実していたが、母親が病に倒れたことをきっかけにUターンを決意し、28歳で故郷に戻った。「もう少し東京で経験を積もうと思っていただけに不本意だという気持ちもなかったわけではありません」、そう振り返る。
東海新報社に入社すると、次の経営者として会社の全体像をつかむため、2年ほど総務部門に勤務。その後、少しずつ記者として地域を取材するように。「原稿を書く私の姿を見て、父が『やっぱりお前は編集の人間なんだな』と言っていたことを憶えています」。

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