「新聞は終わった」と言われるが……。読者シェア7割を維持する《地方新聞の勝ち筋》、家業を継いだ彼女の機転と地方で働く充実感
Uターンした直後は不慣れな仕事に戸惑うことも多かったが、取材現場では、東海新報がどれほど地域の人たちから信頼されているのかを感じる毎日だった。
「東海新報は目の前のこの人たちに支えられていて、この人たちの信頼を裏切ることがあってはならないんだと責任の重さを実感しました」
東京で働いていた時と比べても、誰のために仕事をしているのかが明確に感じられ、充実感を得られたと振り返る。

取材で出会う主婦層からよく「東海新報はおなご(女)の読むところがない」と言われていたのをきっかけに、もっと暮らしに身近な情報を掲載したいと考え、当時の編集長らに紙面改革を提案。
雑誌編集者の経験を生かして写真やイラストを大きく使った紙面を作り、産直の野菜を使ったレシピやSNS活用といったカジュアルで読みやすい連載を始めた。
ローカル紙の責任の大きさを実感した出来事
仕事にやりがいを感じ始めた鈴木さんが、さらにローカル紙の責任の大きさを実感したのが、2011年の東日本大震災だった。
3月11日。揺れが収まり、海が近い集落に取材に向かうと、数時間前に見た日常の風景が一変し、住民たちは茫然自失していた。
「逃げてきた人たちから『全部流された』と言われてもいったい何が起こったのか理解できませんでした」
祖母も津波に巻き込まれて亡くなり、自宅も津波で流された。
高台の社屋は無事だったため、自家発電機を使って震災当日はカラーコピーの号外を発行。翌日から輪転機で通常の半分となる4ページの新聞を刷って、3月末まで無料で避難所などに配って回った。
鈴木さん自身も、翌朝から遺体安置所や避難所を回り、避難所で無事が確認された人たちの名簿を紙面に掲載した。

電気が途絶え、情報が錯綜する中で、東海新報は地域にとってライフラインとなった。物流が寸断された被災地ではガソリンが不足し、自衛隊や救急車など緊急車両以外は給油ができない状況だったが、「あんたたちの情報だけが頼りだ」とガソリンスタンドの経営者が東海新報の社員の車には給油してくれた。
「私たちは情報を届ける責任があるんだ」
日ごろ感じていた使命感が一層強いものになった。
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