《朝ドラ あんぱん》モデルのやなせたかし 東京高等工芸学校の入学後に担任から言われた「驚きのアドバイス」
勉強のほうはどうだったのか。東京高等工芸学校には、やなせが入学した図案科以外に、印刷、金属、木材、精密機械、彫刻、写真などの学科があった。
大体1科につき20名程度で、彫刻や写真のように5人ほどしかいない科もあるなど、少人数で教わることができたようだ。
図案科は校門から入って真正面にあったため、「ぼくらは図案科が高等工芸学校の中心的存在だと自負していた」と、変なところで自信を持ってみたりもしたものの、絵の実力では、自分よりもうまい人がいると、ひしひしと実感した。焦ったやなせは、あるプロジェクトに参加し始める。
「なにか他のこともやらなくてはなめられてしまう。しかしスポーツは駄目だから、友人のすすめもあり、学芸部に入って、学校新聞の編集をした」
各科から委員を出しながら、写真や印刷などそれぞれの専門分野をいかして新聞に携わった。やなせの属する図案科は、カットを描いてレイアウトを描く役割が与えられた。
学校新聞の編集会議でユニークな発案
やなせはこの学校新聞の編集会議で、ユニークな企画を提案し、いくつか実現させている。学食のおじさんやおばさんを集めて、座談会をやったこともあったという。裏方に着目するあたりがやなせならではの視点だろう。
さらに、それだけでは物足りなかったのか、やなせはクラスの回覧雑誌も編集。自ら毎号小説を書くほどの熱心さだった。当時のやなせが憧れたのは小説家の井伏鱒二で、小説では文体を真似するほどだったとか。
やなせたかしはのちに『詩とメルヘン』という雑誌を立ち上げて、実に30年にもわたって編集長を務めることになる。「編集者・やなせたかし」の素地が、この頃から培われていくことになった。
【参考文献】
やなせたかし『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)
やなせたかし『ボクと、正義と、アンパンマン なんのために生まれて、なにをして生きるのか』(PHP研究所)
やなせたかし『何のために生まれてきたの?』(PHP研究所)
やなせたかし『アンパンマンの遺書』 (岩波現代文庫)
梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』 (文春文庫)
真山知幸『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』(サンマーク出版)
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