斜陽メディアじゃない?「ラジオ」20代に人気の訳 オールナイトニッポン統括Pが語る復活の理由

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中高生のころからラジオが好きだった僕ですが、マスメディアを志望したのは高校生の頃です。

そうしたなかで気持ちが固まったのは、大学生の頃、小学生の子どもたちと一緒にキャンプに行ったり、イベントを行うボランティア団体を運営していた経験とつながっています。

元気がなく、ふさぎ込んでいた子どもが、僕たちと校庭遊びやキャンプの時間を過ごすなかで、明るさを取り戻して学校生活も楽しめるようになる。そんな変化を目の当たりにするなかで、「こんなふうに、もっと多くの子どもたちに、テレビやラジオを通じて夢を与えられる仕事がしたい」と考えたのです。

NHKに入局してから2年ほど、ラジオ番組の制作にディレクターとして携わった後、僕は人事異動で新潟放送局に移りました。テレビディレクターとして、テレビ番組の制作経験を積むためです(新人を地方局で修業させるのは、NHKや新聞社の一般的な育成法です)。

新潟に移って間もないころ、子どもが自殺するという痛ましい事件が全国的に起きており、新潟県内でも子どもによる自殺が起こってしまいました。

新潟放送局でも報道記者を中心に学校関係者や教育委員会、いじめの加害者や被害者家族を丹念に取材し、ニュース番組で取り上げたり、検証する番組を作っていました。番組を見てくださった方がきっと何かを感じ、何かが変わるかもしれないと願いながらだと思います。

でも実際にどれほどの効果があったのか、目に見える手ごたえをつかむことはなかなか難しく、テレビディレクターとして駆け出しの自分は、必死に取材する記者やディレクターの姿を見ながら、どこか悶々としていました。

ヤンキー先生で知った「ラジオの原点」

そんなある日曜の深夜、ラジオをつけると「ヤンキー先生」の声が聴こえてきました。新潟でしたが深夜だとAMラジオの電波が届きやすくなるので、ニッポン放送の電波をかろうじて拾っていたのだと思います。

ヤンキー先生とは、現在は教育評論家で政治家としても活動されている義家弘介さんのこと。高校時代に担任の先生と衝突したことをきっかけに道を踏み外しかけるも、周りの熱心な大人たちの働きかけとご自身の強い精神によって人生を立て直し、その経験を生かして教育者になった方です。

当時、義家先生は、ニッポン放送で毎週日曜日深夜0時から「ヤンキー先生! 義家弘介の夢は逃げていかない」という番組のパーソナリティを務めていて、悩めるティーンエイジャーと生放送で電話をつないでは、人生相談に乗っていました。

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