戦国最強「武田信玄」天下取れなかった地理的要因 地理的視点でみると、ある事情が浮かび上がる

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西に行けば京都・大阪といった政治や商業の中心だった街があり、東に行けば幕府が置かれていた鎌倉や、鎌倉幕府を牛耳っていた北条氏がいる小田原がありました。

加えて、近くには伊勢湾もあります。この伊勢湾では、船による交易が盛んに行われていました。このように、交通・海運の結節点にあったことで、経済的に発達しやすかったわけです。

実際、織田信長が天下統一一歩手前まで行けたのは、経済的に成功したからという側面が大きかったと言われています。織田信長の父である織田信秀は、勝幡城の城主として、津島一帯を支配していました。津島は港町であり、海運が盛んでした。港の津料を徴収したことで、信秀は巨大な富を得たと言われています。そして信長は、こうした経済の動きを目の当たりにしながら育ったとされています。

経済を発展させていった信長

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織田信長は、軍事的な成功を進めていきながらも、積極的に経済的な要所を手中に収めていきます。近江は生産性が高かったと言われていますし、大津は琵琶湖水運の要衝でした。

またその後手中にした堺は「商人の街」で商売が盛んなうえに、瀬戸内海の交易の要所でもありました。この堺で、戦いで使う多くの鉄砲と火薬を手に入れることができたと言われています。

織田信長はそれらの経済的な要所を押さえつつ、経済が活性化するような政策をたくさん行いました。

「楽市楽座」で誰もが市場で自由に商売できるようにする規制緩和を行ったり、「関所撤廃」で今まで商品に上乗せされていた通行税をなくすことで、商売を活性化させていきました。

経済的な要所で、経済が活性化する施策が数多く行われたことで、信長の領地はどんどん豊かになっていきました。そしてその経済力を背景にしていたからこそ、織田信長は強かったわけですね。

このように、日本史の目線だけではなく、地理的な観点で戦国武将たちのことを見てみると、全然違った見方をすることができます。みなさんぜひ参考にしてみてください。

宇野 仙 駿台予備校地理科講師

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うの たける / Takeru Uno

1978年、北海道旭川市生まれ。慶應義塾大学商学部を卒業し、Z会東大進学教室講師や河合塾地理科講師を経て現職。「知識より知恵を」が最大の信条。「なぜそうなるのか」「他に考えられる事柄はないのか」を受験生と対話しつつ、社会に出てからも役に立つ論理的思考力や多角的・多面的な考察力を地理の授業を通して伝えている。著書に『センター地理B 最速攻略法』(旺文社)『大学入試 地理B論述問題が面白いほど解ける本』『地理B 早わかり要点整理』(ともにKADOKAWA)、『ぐんぐんわかるセンター地理B』(駿台文庫)がある。

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