
退任後も自らの政策判断に誤りはなかったとする黒田東彦・前日銀総裁(撮影:今井康一)
振り返れば、あそこが分かれ目だったと気づくことがある。1997年11月3日、三洋証券が会社更生法の適用を申請した。当初は透明性の高い法的処理が採用されたと高く評価されたが、後から見れば、未曽有の平成金融危機に向かう重大な分岐点だった。
2000年8月の拙速なゼロ金利解除は、半年後に量的緩和という禁断の世界に足を踏み入れる端緒になった。その後四半世紀に及ぶ大規模緩和時代への分かれ目である。そして10年に及ぶ総裁・黒田東彦の「次元の異なる金融緩和」が歴史的な分岐点を迎えたのは、あまり知られていないが、22年11月の最初の週末だった。
金融政策を担当する幹部の自宅に、この日、黒田から突然電話がかかってきた。文化の日から黒田は連休を取り、静養していた。
「YCCの枠組みは変更しない。だが、変動幅を0.5%に広げるのはOKだ」
このころ日銀は、短期金利と長期金利を同時に操作する「イールドカーブ・コントロール(YCC)」という政策を採用し、長期金利が0.25%を超えないよう抑え込んでいた。この変動幅の上限を0.5%に広げ、ある程度の金利上昇を容認しようというのだ。
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