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物価高で環境激変、「穏やかな船出」戦略の誤算 異次元緩和「解体」への道③

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岸田首相から辞令交付された植田総裁、氷見野良三、内田両副総裁
岸田首相(当時・右)から辞令交付された植田総裁(右から2人目)、氷見野良三(左)、内田両副総裁(左から2人目)(写真:時事)

経済学者の植田和男が黒田東彦の後継総裁に選出されたのは、本命とみられた副総裁の雨宮正佳が総裁レースへの“出馬”を固辞し、植田を自ら推挙したからである。植田と日銀の付き合いは長く、1990年に金融研究所の客員研究員に招かれた後、96年から調査統計局に1年間出向し、新日銀法の施行とともに46歳の若さで初代審議委員に選出された。

植田はゼロ金利政策後の追加緩和手法として、現在のフォワードガイダンスの原型となる「時間軸」政策を発案し、政策金利の算定式であるテイラールールを日銀に持ち込むなど、新風を吹き込んでいく。そして、2000年8月のゼロ金利解除の際、速水優総裁率いる執行部の提案に敢然と反対票を投じ、周囲を驚かせた。

“植田の乱”に驚いた日銀スタッフは、金融政策決定会合の前日まで説得を試みたが、植田は「デフレ懸念が払拭できるまでゼロ金利を続けるという約束を破るべきではない。テイラールールで調べても解除は早すぎる」と言い、取り合わなかった。ちなみに、スタッフがこのルールを使って後日試算したところ、植田が指摘したとおりの結果が出たという。

結局、ゼロ金利解除はその後の景気失速で「失敗」の烙印を押され、日銀は半年後に量的緩和政策への移行を余儀なくされる。まさに植田の慧眼(けいがん)が証明された形で、このときの実績が植田にハト派(金融緩和重視)のイメージを植え付け、ポスト黒田の有力候補に押し上げる決め手になった(総裁人事の舞台裏は拙著『ドキュメント 異次元緩和』を参照)。

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