福島原発事故、「現代の田中正造」は何を訴える 1審だけで9年、「井戸川裁判」傍聴記(後編)

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東電の代理人弁護士はさらに攻め立てた。

――〇〇は震災後の双葉町の復興事業もしていますね。

「しています」

――加須市内にある〇〇の持ちビルをあなたは事務所として借りていますね。

「まあ、住まいも兼ねています 」

――〇〇はこのビルでどのような事業をしていたのかお答えください。

「私の希望としては、双葉町から〇〇を引き上げたかった。息子の将来を考えたときに汚染のひどいところに置いておきたくなかった。だけど息子は双葉町の地元を守るという思いが固く、いさかいがあって困っています」

〇〇は井戸川が30歳過ぎに東京から帰郷し、双葉で創業した水道設備会社だ。町や東電から工事を受注するまでに成長した地域の優良企業だった。井戸川の町長就任後は妻が社長となり、事故後は長男が福島県内を拠点に営業を続けている。

あなたは(家族を通じて)事実上賠償を得ている。「踏み絵」に応じたではないか――東電の弁護士は暗にそう指摘していた。

傍聴者に恐怖感を与えるのが目的か?

訴訟を起こさなくとも、直接請求という手段を用いれば、中間指針に定められた額の賠償金が支払われる。だが井戸川は個人としては直接請求をしていない。司法の場に訴え出るのには損害賠償訴訟という道以外になかったのだ。しかし生きてゆくには、生活資金が必要だ。東電の弁護士は巧みにそのジレンマを突いた。

あくまでも会社と井戸川は別人格だ。そもそも人は霞を食っては生きていけない。果てしない闘いを家族に支えてもらうのをどうして非難できよう。

裁判の結果、井戸川が手にする賠償金が中間指針で定められた額を下回ることはまずないし、万が一、この尋問によって賠償金が減額されたところで、それが東電の経営を助けるような成果にはならない。

結局のところ、井戸川の人格を貶め、傍聴者に恐怖を与える以外にこの尋問の意義は見えない。そこに償いの意思など微塵も感じられない。

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