ズケズケ言ってくる友達が抱える「心の傷」の正体 「嘘がつけないから」は言い訳に過ぎない

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また、気分がいいとき―喜び、落ち着き、愛情を感じているときに、自分にはウソ偽りがないと感じ、その一方で不快なとき―不安、ストレス、落ち込みを感じているときに、自分を偽っているように感じます。

自分の心理的なニーズがすべて満たされたとき、そして自分が有能だと感じられるときや、帰属意識を感じられるとき、自己肯定感が高まっているときに、ウソ偽りのなさをもっとも強く感じます。

これらの研究では、ウソ偽りのなさとは何か、あるいは何でないかが明らかです。つまり、ウソ偽りのなさとは、傷ついたと感じたときについしてしまう反射的な行動ではないということです。また、人のことなど気にせずに、自分の考えや感情を思うままに向こう見ずに表現することでもありません。

責めたり、こき下ろしたり、攻撃したりといった行動は、ウソ偽りがないというより、感情がむき出しのままの行動であるといった方がいいでしょう。

そうではなく、本当のウソ偽りのなさとは、安心できる環境で花開くものだといえます。防御メカニズムに乗っ取られていないときに到達できる、落ち着いた状態なのです。

「落ち着いた」状態とはつまり、注意散漫になっていたり、マルチタスクをしていたり、たとえば「元気?」と聞かれて自動的に「元気だよ」と答えるなど、何も考えずに発言したりするときは、ウソ偽りない状態ではないということです。

防御メカニズムに乗っ取られていない状態ということは、安心感に触れ、ウソ偽りがない状態になるということです。たとえ脅威や批判、拒絶、無視などに直面しても、自分を防御する必要性を感じないときです。

不安や恐れを抱かず、世の中にどのような姿を見せるかを、反射によってではなく意図的に決断できる状態の自分です。

「本当の自分」とは、感情をむき出しにした状態ではない

この定義をもっと肉付けしてみましょう。私たちは、人間関係や自尊心を守るために、本当の感情から距離を取ってしまうことがよくあります。

愛着理論の父ジョン・ボウルビィはこれをこう表現します。「母親に伝えられないことは、自分自身にも伝えられない」私たちは、自分を見捨てた友達を恋しがる気持ちを認める代わりに、去って行ったことなど気にしない、と言います。

自分の方が成熟して友達とは合わなくなったと認める代わりに、何も問題ないと自分に言い聞かせます。

自然の感情を捻じ曲げ、それを正当化したり、考えないようにしたりします。しかしながらウソ偽りのなさとは、友達に見捨てられて拒絶されたと感じるのを自分に許すこと、友達にからかわれて傷ついたと感じるのを自分に許すこと、幼なじみとはもう会わないのだと認めるのを自分に許すことです。

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