静岡が「缶詰王国」に上りつめた明治期からの軌跡 有名企業が本社を置く知られざる缶詰の一大産地
戦時中、清水港は軍事拠点ではないものの、軍港としても機能していた。工場があって、東亜燃料工業(東燃ゼネラル石油の前身)もある。缶詰を作るために必要なものが揃っていたことも、この地域を缶詰製造の一大産地たらしめた要因だったという。反面、缶詰が大きな生産品となったことで、蘭字の文化はなくなっていくことになる。
現在、ツナ缶の市場規模は年間で約800億円と言われている。国内産のツナ缶の98%は、静岡県(静岡市と焼津市)の会社によって製造されているそうだ。缶詰王国は、ツナ缶王国。だが、「それ以外にもさまざまな缶詰を作っているんですよ」と川隅さんは語る。
「たとえば、みかんの缶詰。まぐろのシーズンは4月~9月の間ですから、夏以外にも工場を稼働させたい。そこで、静岡県はみかんの産地でもあるので、冬の期間である10月~3月はみかん缶を作るようになりました。年間を通して工場の操業が可能になったことで、缶詰産業は静岡県の地場産業となっていくんですね」(川隅さん)
お茶からまぐろ、そしてみかんへ。静岡の缶詰には、歴史が詰まっているというわけだ。
缶詰が戦時中の雇用を支える
缶詰の製造で大事なことは、次の3つの工程だ。
1つ目が「脱気」と呼ばれる空気を抜くこと。2つ目が、空気や菌が入らないようにしっかり蓋をする「密封」。最後が、高い熱で缶の中の菌を死滅させる「殺菌」。この3つのプロセスを極めることで、缶詰は長期間の常温保存が可能となり、さまざまな食品を缶詰化することに成功する。
フェルケール博物館には、缶詰記念館という小さな建物がある。
「缶詰記念館は、日本で初めてマグロ油漬缶詰を製造し、アメリカに輸出した清水食品株式会社の創立当時の本社社屋を移転、補修したものです。言わば、静岡市の缶詰産業がスタートを切った建物です。昭和40年代になると、港周辺は整備され、港の風景も変わってきました。清水港の歴史を伝え広める、それがフェルケール博物館の理念でもありました」(前出・椿原さん)
博物館の一隅に目をやると、印象的な女性の顔をモチーフにした石碑が飛び込んでくる。
「戦時中は、缶詰工場でたくさんの人が働いていました。静岡県缶壜詰協会(1951年に静岡罐詰協会に改組)は労務協議会を設置し、戦後、初給賃金などを記載した『静岡缶詰協会員初給賃金協定』を締結します。最低賃金のはじまりであり、労働者のセーフティーネットを設けるという取り組みの先駆けでもありました」(椿原さん)
国会で最低賃金法が成立したのは、1959年のこと。その4年前に「静岡缶詰協会員初給賃金協定」が結ばれていたことを鑑みれば、静岡の缶詰産業が果たした功績は計り知れない。
小さな缶詰がこれほどまでに大きかったのかと缶嘆 (感嘆)する。缶詰の物流は、そのまま時代の流れを表していたのだ。たかが缶詰、されど缶詰。缶詰の世界は奥が深いのだ。
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