静岡が「缶詰王国」に上りつめた明治期からの軌跡 有名企業が本社を置く知られざる缶詰の一大産地

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開国後、お茶は生糸と並ぶ重要な輸出品目となった。明治15年(1882年)には、日本茶生産量の82%が輸出向けで、主な輸出先はアメリカだったという。

明治22年に東海道線が開通すると、お茶の輸送は海運から鉄道へと移行。この変化を機に、清水港から直接お茶を輸出する運動が活発化していく。

明治32年、清水港は開港場に指定され、近代港湾として生まれ変わり、明治41年には神戸港を、明治42年には横浜港を抜き、清水港は日本一のお茶を輸出する港となる。大正6年には、全国茶輸出高の77%を占めていたというから驚きだろう。

当初はお茶を輸出していたが…

このとき、日本茶を輸出する際の茶箱に貼られるラベル「蘭字」という独特な文化があった。さかのぼること江戸時代、日本の大きな輸出先がオランダだった。そのため、ラベルにアルファベットが書かれているものを蘭字と呼ぶようになったそうだ。

「現在の静岡市域にも浮世絵職人たちがいました。また、清水港から直輸出が始まると横浜の職人も静岡に移ってきました。明治時代になると浮世絵文化は下火になっていきます。そのため、彼らの暮らしを支える意味でも、蘭字の存在は大きかった。お茶の輸出が、さまざまな人々を下支えしていたんですね」(椿原さん)

浮世絵職人によってデザインされた蘭字は、日本のグラフィックスデザインの先駆けとも言われている。その洗練された妙技は、フェルケール博物館で確認することができるのだが、モダンかつポップなデザインは、現代でも通用するだろうオリジナリティを備えている。

個性豊かな蘭字のデザイン。茶箱に貼られ輸出されていた(筆者撮影)
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