真面目な人ほど「就活」で損する演技社会の「茶番」 会社が求める演技をできる人が評価される現実
舟津:似たような例として、「先生の授業は面白いから出たいんだけど、友達グループが出たがらないから来づらい」とコメントペーパーに書いている学生がいました。
鳥羽:来ればいいのに、と思いますね(笑)。
舟津:まさに自分の欲望の問題ですよね。自分が来たいと思ったら来ればいいのに、「ノリが悪い」と言われるから来れない。「友達みんなで楽しくサボってるのに、ひとりだけ授業に出るやつって、ちょっとヤバいんじゃない?」って、なるんですよね、たぶん。
鳥羽:そうなのでしょうが、しょうもないですね。
先入観ありきの友達作り
舟津:私の理解では、高校まではクラスで固まる凝集性が高く、対して大学は自由に独りになれる、孤独を許容する場所だと思っています。でも、むしろ今の大学って独りにさせないようにできているんですよね。例えば特に文系学部では、大学の偏差値によらず、ベーシックセミナー(入門演習、ファーストイヤーゼミ)と銘打って新入生用のクラスを作ることが多いです。ドロップアウトする子を生まないように、大学側が友達作りの場を授業として用意している。
鳥羽:そういうお膳立ては、かえって偶然的な出会いの可能性を奪っている感じがします。
うちの教室では、高校生の哲学対話授業がありますが、最初は自己紹介らしきものはあまりしない、名前だけを言うという方針にしています。高校とか部活動などの所属なんかを言うと、それだけで色付けされちゃうから、あえて名前だけにして、1年かけて会話の中で相手のことを知っていくんです。最初に色付けしないほうが面白い。
でも今は、例えば小学生たちも発達障害という言葉を知っていますから、クラスに発達障害の子がいるとわかると、「いい子」ほどその子に配慮しなきゃと思うようになります。何かいたずらをしたりふざけたりしても、「あの子は発達障害だからしょうがないんだ」と理解を示すわけですが、それってほんとうに理解と言えるのか。むしろ最初からその子を理解しなくていいっていう共通了解をつくっただけなんであって、欲しかったのは理解したっぽい雰囲気にすぎないわけで、そうすると発達障害と名指された子どもたちはますます孤立して寂しくなっていくんです。