多摩モノレール延伸区間「幻の鉄道計画」の顛末 政界巻き込む事件に発展「武州鉄道」の壮大構想

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この事件が興味深いのは、実はこの先だ。ここで話が終われば、滝嶋という一事業家の夢が破れたというだけで、世間を騒がせるような事態にはならなかっただろう。

楢橋渡
運輸大臣等を歴任し、「怪物」とも称された楢橋渡(出典:『激流に棹さして わが告白』楢橋渡著より引用)

ところが、奇妙なことに1961年7月11日、武州鉄道元発起人総代の滝嶋(当時、すでに同地位を辞任)に対して、敷設免許が正式に下りたのである。通常、鉄道免許の交付までには4年程度かかるとされていたが、申請から2年半というスピード交付だった。滝嶋の政界工作が功を奏したと見るべきであろう。

この免許交付は、その後の東京地検による武州鉄道関係者の一斉摘発に向けて上げられた狼煙であった。免許が下りた翌7月12日、土地買収に当たっていた武鉄関連不動産会社「白雲観光」の役員が摘発されたのを皮切りに、滝嶋、平沼、楢橋ら関係者18人が逮捕されたのである。

その後の裁判では、滝嶋に対する融資金の回収を巡る特別背任なども争われたが、本丸は「武州鉄道免許にからむ贈収賄」であった。政治とカネの問題である。

大臣へ渡ったのは「献金」か「賄賂」か

争点は、滝嶋から楢橋へ渡された金銭が、「政治献金」だったのか「賄賂」だったのかである。言い換えると、金銭を受け取った時期において、楢橋に武州鉄道免許交付に関する職務権限があったのかが争われた(収賄罪は公務員がその職務に関し、金品を収受することなどを禁じている)。

運輸大臣ならば免許を交付する権限があるのは当然だろうと思われるかもしれないが、弁護人は、運輸大臣と、運輸大臣からの諮問を受けて免許の可否等を審議する運輸審議会との関係性から次のように主張した。

「運輸審議会は運輸大臣の所掌事務から独立した行政機関であり(中略)独自の権限に基づき公正な決定をなすべきであって、運輸大臣といえども審議会を指揮監督できない。運輸大臣は諮問前はもとより、諮問後も答申があるまでは、免許の決定権を行使できる段階でなく、かりに五回にわたり金銭の授受が行われたにしても、その時期には楢橋には武鉄免許に関する職務権限がなかった」

この主張の論点は2つあり、まず、運輸審議会に対し、運輸大臣の職務権限が及ぶのかが問題となる。そこで運輸審議会における審議・答申までの流れを見ると、次のようになっている。

「運輸審議会は、本省(運輸省)から資料の提供を求めたり、係官からの聴取、さらには他の機関に調査を依頼したり、また必要と認めたときは公聴会、聴聞会を開いて審理し、審議会として免許の可否を決定。この運輸審議会の意見は答申として会長から大臣に報告され、大臣は、この答申を参酌し、かつ、これを尊重して正式に免許の可否を決め、申請に対し免許あるいは却下の決裁をする仕組みになっている」(『戦後政治裁判史録3』)

これを素直に読めば、運輸審議会における審議は運輸大臣の職権から独立して行われるとともに、公共性の極めて高い鉄道免許の可否が、恣意的な判断に左右されないよう、意思決定の多重性が確保されていると見ることもできる。

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