多摩モノレール延伸区間「幻の鉄道計画」の顛末 政界巻き込む事件に発展「武州鉄道」の壮大構想

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ところが、鉄道事業にはずぶの素人だった滝嶋は、用地買収などの実務面は他人任せで、自らは鉄道免許取得のための政財界工作に奔走。埼玉銀行から融資された鉄道建設資金のうち数億円に上る金銭を政財界工作に流用するなど、その会社運営は極めてずさんだった。

このような武州鉄道の実態は、間もなく明るみに出ることとなる。1957年に秩父線(吾野―西武秩父間)の敷設免許を申請し、一部区間が競願関係にあった西武鉄道は、「山間部の多い計画路線を、50億円ほどの金で実現できるはずがない」(『戦後政治裁判史録3』田中二郎ほか)と、武州鉄道計画に対して反対姿勢を見せたほか、運輸省(当時)内にも、武州鉄道の免許に反対する声が強まっていった。

西武秩父線 芦ヶ久保駅
武州鉄道と競願となった西武秩父線の芦ヶ久保駅。西武秩父線は非常に険しいルートを行く路線だ(筆者撮影)

この時点で、埼玉銀行は武州鉄道関連事業に対して、すでに相当な金額を融資していたが、こうした批判の声に加え、同時期に大蔵省銀行局(当時)が埼玉銀行に対して行った検査で「武鉄は免許見通しなく、滝嶋関係融資分は多分に思惑的な点がある」との指摘を受けた。これに衝撃を受けた平沼は、取り巻きからの警告もあり、武州鉄道事業と絶縁する方向に舵を切ることにした。

免許交付の翌日に運輸大臣ら逮捕

だが、時すでに遅しであり、平沼が武州鉄道の発起人を正式に辞任し、事業からの「撤退」を完了したのは1960年4月。それまでの間に、滝嶋の政界工作は後戻りできないところまで進んでいた。財界有力者を介して、当時の岸内閣の運輸大臣・楢橋渡(ならはしわたる)に接近し、武州鉄道建設予定地の視察に連れ出すことに成功。その後、築地の料亭で複数回にわたり接待している。

そして、西武鉄道の「武鉄反対」運動が活発化すると、滝嶋の行動はさらにエスカレートする。1959年11月から翌年5月までの間に「政治献金」の名の下、5回にわたって総計2450万円の現金を楢橋に渡したのである。

だが、平沼という資金源を失った武州鉄道計画が空中分解するのは、もはや時間の問題であった。

秩父鉄道 御花畑駅
武州鉄道の終点駅(予定)だった御花畑駅に停車中の秩父鉄道の車両(筆者撮影)
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