このような前提事項を述べたうえで、「もし面接の場で理論的に何かを語るなら、この子どもの問いかけは、この子自身の問題なのか、それとも、問われている医師の問題なのかを整理することもできる」と話した。
ただここにも難しさがある。悲しみ、憤っているのが子ども自身だからといって、「悩みに向き合うべきは子ども自身だ」と片付けることはできないだろう。これは人間関係などの悩みと違い、自らが積極的に関わることで解決の糸口を見いだせるたぐいの問題ではないのである。
2者の間にそびえる、乗り越えられない壁
そしてそうであるならば、この子をひとり孤独にがんと向き合わせるわけにはいくまい。しかし、いい治療法があるならともかく、不治の病であれば、死にゆく者と生き続ける者の間には、乗り越えられない壁がそびえている。子どもから至上の難問をつきつけられた医師は、穏やかではいられないはずである。
実は私も、これと似たような体験をしたことがある。その昔、私の教え子にがんで倒れた少年がいた。医師を目指して勉学に励んでいた彼が、ある日突然、余命半年と宣告されたのである。
私はその少年を見舞うため、ドキドキしながら彼の病室を訪ねた。そして扉の前で、後ずさりした。彼にどのような言葉をかければいいのか、そもそもどのような顔で病室に入ればいいのか。作り笑いをすべきか、深刻に振る舞うべきか。まったく見当がつかなかったのである。
案の定、病室では無言のまま静かに時が流れていった。会話を交わせるような状況ではなかったのである。今考えてみると、本問の幼児のように憤り、悲しみ、失望し、死の恐れを体全体でぶつけてくれたほうがどれほどましで、楽であったかとすら思う。
もしそういう反応があれば、私は彼の発言の背景にある彼の気持ちをくみとり、彼の投げたボールをそのまま投げ返すことができたのではないかと思う。つまり次のような会話である。
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