共学校にも実社会にも潜む「男子校の亡霊」とは 男子校を潰しても男女平等にはならないワケ
男子校への取材で印象的だったのは、受験競争のトップを行くような男子生徒が集まる超進学校でこそ、教員たちが「競争に勝ち続けてバリバリ稼いでぐいぐい引っ張るばかりが男性ではない」というメッセージを発していたことだ。
彼らは過酷な中学受験を乗り越えてきた。さらに中学合格と同時に「次は東大だ!」という大学受験塾のチラシを手渡され、さらなる競争へと駆り立てられている。それを教員たちもわかっている。
ある女性教員は、「ジェンダー・バイアスにとらわれている限り、いまあなたたちのなかにあるコンプレックスと優越感の難しい戦いは、きっと大学受験終わっても終わらないからね」と真剣に生徒たちに語りかけていた。
自分たちの弱さや不安を否定するのではなく、むしろ受け入れることで乗り越えてほしい。「あるべき男性像」のくびきから自由になってほしい。……という願いが込められている。
冒頭の東大のポスターの女性に対するメッセージとは相互補完的な関係をなす。
世界を席巻する「デフォルトマン」とは?
権威の象徴としてのマッチョな男性像を、学校という組織が宿命的にもつ権威主義的な雰囲気が維持・強化していると指摘するイギリスの本がある。『男の子は泣かない 学校でつくられる男らしさとジェンダー差別解消プログラム』(著/スー・アスキュー、キャロル・ロス、訳/堀内かおる)。1980年代のイギリスが舞台だ。
たとえば、生徒たちの私語が多くて困っている女性教員の教室に男性教員が乗り込んで怒鳴って一喝する。このような方法で、困難を抱える女性教員を権威主義的な男性教員が“助ける”と、そのことによって、女性蔑視の構造はさらに強化されると指摘する。男子校だけでなく、共学校でもあることだ。
イギリス生まれのアーティストでテレビ司会者のグレイソン・ペリーは著書『男らしさの終焉』(訳/小磯洋光)で、「異性愛白人ミドルクラス男性」のことを「デフォルトマン」つまり「社会の初期設定」と皮肉っている。彼らは女性と同性愛者と非白人を無意識的に下に見る。彼らの価値観でいまの世界は構築されているというのだ。
その価値観では要するに、“いい家”に住めて、“いい車”に乗れて、“いいレストラン”で食事ができて、“いい女(女性蔑視へのアンチテーゼの文脈でここではあえてこの表現を使わせてもらう)”を連れて歩けることが成功の証とされる。競争社会における、いわゆる“勝ち組”のイメージだ。
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