死を願うなんて、みなさんには想像できないかもしれない。でも、もし、このまま運よく死ねれば、多額の保険金がおりる。教育費も生活費も心配なくなるし、住宅ローンもチャラになる。仕送りも何とか続けられる。家族みんなが安心して生きていける。
反対に、運悪く生き延びて、元の体に戻れなかったとすればどうだろう。保険金もおりず、仕事もできず、給料ももらえず、住宅ローンは払えず、教育も、暮らしも、仕送りも、全部あきらめるしかなくなるはずだ。
みなさんは、以上の私の経験をどう聞かれただろう。
自分が生き延びたら、愛する人が生き延びたら、「よかったね、幸せだね」と言えるのが当たり前の世の中ではないだろうか。
ところが、命懸けで私を育ててくれた母や叔母が長生きするとしんどくなる。子どもたちのために自分なんて死んだほうがマシだ、と考える。こんな社会はまともじゃない。絶対に許される社会じゃない。
私の話が悲しいとすれば、親の不幸を願ったり、自分の死を願ったりする「非人間的な感情」に理由がある。そして、私のなかの非人間性は、おそらく多くの人たちにとっても他人事ではない。だから私は、「この国には悲惨があふれかえっている」と言う。
あまりにも重くのしかかる「生活コスト」
人間性を喪失する理由はどこにあるのか。そう、それは、医療、介護、教育といった「生活コスト」があまりにも私たちの肩に重くのしかかってくるからだ。
ご存じだろうか。いま、先進国の社会保障に大変動が起きている。かつて、最も手厚い福祉で知られたのはスウェーデンだった。ところが、同国では、社会保障が抑制され、反対に社会保障の充実を図る「自己責任大国アメリカ」とあまり変わらない水準にまできている。
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反対に高福祉高負担の代表国はフランスだ。同国では、年中、政府を相手に国民が暴動を起こしている。彼らは、国に対して抗議の声をあげ、同時に、税を納め、暮らしを支え合い、連帯を追い求める。政府はそんな国民を恐れている。
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