母の聞こえの悪さは急速に進んでいた。私は、大きな声で何度も母に話しかけてみたが、まったく反応してくれない。それどころか、途中で食事をやめ、私を通り越して、部屋の遠くをじっと眺めはじめた。
30分くらい経ったのではないか。何を思ったのか、母が急に「ニヤッ」と笑いはじめた。私はゾッとした。
ひどいやつだと思わないで聞いてほしい。当時、うちには3人の子どもがおり、収入がほとんどなかった母と叔母への仕送りも必要だった。
「2人はいつまで生きるのだろう」
慶應の教授といえば、世間的には羽振りのいい暮らしを想像されるだろう。だが、うちは片稼ぎ。現実には、回転寿司で子どもが何を頼むのかハラハラするし、服だって安いファストファッションに頼っている。
そんな生活にさらに施設費用が加わるのか……「ニヤッ」と笑った母を見た瞬間、「2人はいつまで生きるのだろう」と思った。同時に、姉夫婦は、この笑顔を毎日のように見ている。私は自分の弱さ、不誠実さを知り、悶絶した。
だが、この母への冷たい目線は、かつて自分自身に突き刺さったトゲでもあった。
今から13年前の2011年4月、東日本大震災が起きた翌月に、38歳だった私は脳内出血で死にかけた。過労で倒れ、床に強く頭を打ちつけたのだ。
生きるか、死ぬか、後遺症が残るか、残らないかの瀬戸際に立たされた私は、ベッドで布団をかぶって一晩中泣いていた。
死ぬのが怖くて泣いたのではない。まるで反対だ。頼むから殺してほしい、そう思って泣いたのだ。
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