かつてタブー視「肉食」が日本で普及した納得理由 675年には肉食禁止令、たどると深い歴史的経緯

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共食とは、神への供え物を皆で飲食することである。神と人、および人と人の結び付きを強めようという儀礼的な食事だ。神事の終了後、お神酒(みき)や神饌(しんせん)を下ろして飲食する酒宴は直会(なおらい)と呼ばれるが、拝領鶴のお吸い物の共食はまさに直会のようなものであった。

将軍からの拝領品とは、いわば神様から下賜されたものとして取り扱うよう求められたわけである。将軍の存在を当該の大名の家中にも改めて周知させようという幕府の目論見も透けてくる。

肉食が盛んになった時代に食べられていた「山鯨」

江戸っ子の間では鶏肉が人気を呼び、大名の間では将軍から下賜された鶴の肉が食べられたが、鳥類はともかく四つ足の動物となると、食用は一般的ではなかった。肉食をタブー視する風潮が枷になったことは想像するにたやすい。

比丘尼橋周辺の江戸の絵。「山くじら」、すなわち獣肉食を出す店の看板が描かれている(歌川広重『名所江戸百景 びくにはし雪中』)

「薬食い」という用語がある。養生や病人の体力回復のため薬代わりに肉食する風習のことだが、この用語にしても肉食をタブー視する風潮への配慮が窺える。

だが、江戸後期にあたる19世紀に入ると、獣肉を調理して提供する店が増えはじめる。それだけ、鳥以外の獣肉が食べられるようになったからである。

『守貞謾稿』によれば、天保期(1830~44)以降、肉食が盛んとなったという。獣肉を扱う料理屋の店先には「山鯨」(やまぐじら)という文字が書かれた行燈(あんどん)が掲げられたが、山鯨とは猪を指す言葉だった。

肉食をタブー視する風潮に配慮し、猪を山鯨と称して食べていたことがわかる。

随筆家の寺門静軒(てらかどせいけん)が書いた『江戸繁昌記』にも、猪などの獣肉を「山鯨」と称して食べることが天保期頃には盛んになったと記されている。

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