「ある朝学校に行けなくなった」適応障害で休職した教員が復職後に手放したこと ゆきこ先生の回復を早めた「校長先生の言葉」

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

ちょうどコロナ禍と重なったこの時期が、ターニングポイントになったと渡邊氏は語る。

「こちらに戻り、福岡で身に付けたやり方が通用しないことが多々あったのですが、多忙な中できちんと自身の仕事を振り返る時間をなかなか持てずにいたんです。そんな中、コロナ禍の休校でゆったりと教材研究ができ、分散登校ではじっくり子どもたちに関わることができた。それが嬉しくて仕方なく、『このスタイルならずっと働けるのに』と思うのと同時に、『そんなふうに思ってしまうから、私は教員の仕事が難しいのだろうか』といった重たい気持ちが大きくなっていきました」

今後のキャリアをどうすべきか思い悩む中、人間関係における強いストレスも生じた。さらに、「当時は再婚してステップファミリーになったばかりで、子どもとの時間を大切にするために早く帰りたかった」(渡邊氏)が、通常の業務に加えて新型コロナの感染防止対策の議論などが続き業務が増え、帰りづらくなった。

こうしたさまざまな要因が重なる中、異変が起き始める。急に涙が出てきたりのぼせたり、問題なくできていた仕事で集中力が途切れたり、夕方になると頭痛がしたり。そんな不調がだんだん増え、9月のある朝、とうとう学校に行けない状態になってしまった。

母親の勧めですぐにメンタルクリニックに行ったところ、適応障害と診断される。休職することになったが、最初の1週間は「子どもたちに申し訳ない」と自分を責め続け、布団から出られない日々を過ごしたという。そんなとき、校長がこんな言葉をかけてくれた。

「ここまでよく頑張ってきました。あなたはたまたま心に鉄骨が落ちてきて動けない、ただそれだけのこと。まずは心をゆっくり休めることが大事です。すぐに復帰しなければといったことは考えなくていいし、全然違う仕事をしてもいい。でも、やはり教員だなと思ったらここに戻ってきてほしい。いつでも復帰できるようにしておくから、ちょっと好きにしてみたらいい」

そうした温かい言葉と選択肢をもらえたことが、回復を早めてくれたと渡邊氏は言う。

「校長先生のおかげで、今やるべきことは徹底的に休むことなのだと思うことができ、毎日1回は外で歩くことは課しつつも、ゆっくり過ごすことを心がけました。すると、次第にやっぱり働きたい、子どもの前に立ちたい、教育に携わりたいという思いが自分の内側から募ってきたのです」

手放したのは、「誰かの正解ばかりを追い求めること」

渡邊氏は結果として、1カ月ほどで復職した。別の学校で非常勤講師として働き始め、教員採用試験に合格していたこともあり、翌年の2021年度からはその学校の正規教員となった。休職が長期化しなかったことについて、渡邊氏はこう分析する。

「さまざまな出来事が適応障害の引き金となりましたが、しんどさの本質は自分の軸を持ちながら働くことができなかったことにあった。そこに気付くことができたから復帰できたし、復帰後も順調に働けたのだと思います」

自身の働き方を見つめ直した渡邊氏。再び教員の仕事を続けていくうえで、手放したことがある。それは「誰かの正解ばかりを追い求めること」だ。

「私は初任の頃からずっと『上司がやれと言うから』『先輩がこう言ったから』といった基準で仕事をしてきました。そうした働き方を選んでいるのは自分なのに、私は自分のやりたいことができていないと嘆いていたのです。それに気付いてからは、どんな仕事であれ、私自身がやりたいと思えるよう、理想と現実をすり合わせることにエネルギーをかけるようになりました。子どもたちとの関わり方についても、厳しく管理するような指導は完全に手放し、子どもたちが素直に自分の心の声を出せることを大切にする指導に変わりました」

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事