「認めてもらわなければ」と走り続けた初任者時代
渡邊氏は現在、公立小学校の非常勤講師をしながら、「ゆきこ先生」の愛称でインスタグラムを中心にSNSで悩める教員の相談に乗るほか、私立小学校のインスタグラムの運用や各種講演などさまざまな活動をしている。小学5年生と1歳の子どもを育てる母親でもある。
幅広く活躍する渡邊氏だが、適応障害を発症して休職した経験がある。ある朝学校に行けなくなってしまったというが、「しんどさ」は突然生まれたわけではない。今思えば、初任の頃から苦しさを抱え続けていた。
キャリアのスタートは、大学を卒業してすぐの2015年春。結婚の予定があった関係で、横浜市から婚約者が住む福岡市に移って採用試験を受けた。合格を勝ち取り、晴れて小学校の教員となったが、そこからの4年間は「修行期間だった」と渡邊氏は振り返る。
「自閉スペクトラム症の弟を取り巻く環境をずっと何とかしたいと思っていて。そんな自分は教育現場なら役に立てるのではと教員を目指しました。合格したときはとても嬉しかったです。でも、いざ働き始めると、子どもがうるさければ厳しく指導すべきなどさまざまな決まりがあり、大学時代に見聞きしていた学校像とはギャップが大きく驚きました。しかし、わからないことばかりで何事もうまくいかないため、自分がやりたいと思っていたことはいったん捨て、先輩のやり方を踏襲してまずは認めてもらえるようにしなければと、がむしゃらに走り続けました」
今の自分をつくる大切な時間ではあったが、苦しかった。その間、プライベートでは結婚と離婚を経験。初任者の満期である4年の任期を終えたのを機に、2019年に福岡市を離れた。
「たまたま心に鉄骨が落ちてきて動けないだけ」
友人のつてを頼り、東京都世田谷区立の小学校で産休代替の臨時的任用教員として再スタートを切った渡邊氏。2020年には故郷の横浜市に戻り、今度も産休代替の臨任教員として小学4年生の担任になった。
ちょうどコロナ禍と重なったこの時期が、ターニングポイントになったと渡邊氏は語る。
「こちらに戻り、福岡で身に付けたやり方が通用しないことが多々あったのですが、多忙な中できちんと自身の仕事を振り返る時間をなかなか持てずにいたんです。そんな中、コロナ禍の休校でゆったりと教材研究ができ、分散登校ではじっくり子どもたちに関わることができた。それが嬉しくて仕方なく、『このスタイルならずっと働けるのに』と思うのと同時に、『そんなふうに思ってしまうから、私は教員の仕事が難しいのだろうか』といった重たい気持ちが大きくなっていきました」
今後のキャリアをどうすべきか思い悩む中、人間関係における強いストレスも生じた。さらに、「当時は再婚してステップファミリーになったばかりで、子どもとの時間を大切にするために早く帰りたかった」(渡邊氏)が、通常の業務に加えて新型コロナの感染防止対策の議論などが続き業務が増え、帰りづらくなった。
こうしたさまざまな要因が重なる中、異変が起き始める。急に涙が出てきたりのぼせたり、問題なくできていた仕事で集中力が途切れたり、夕方になると頭痛がしたり。そんな不調がだんだん増え、9月のある朝、とうとう学校に行けない状態になってしまった。
母親の勧めですぐにメンタルクリニックに行ったところ、適応障害と診断される。休職することになったが、最初の1週間は「子どもたちに申し訳ない」と自分を責め続け、布団から出られない日々を過ごしたという。そんなとき、校長がこんな言葉をかけてくれた。
「ここまでよく頑張ってきました。あなたはたまたま心に鉄骨が落ちてきて動けない、ただそれだけのこと。まずは心をゆっくり休めることが大事です。すぐに復帰しなければといったことは考えなくていいし、全然違う仕事をしてもいい。でも、やはり教員だなと思ったらここに戻ってきてほしい。いつでも復帰できるようにしておくから、ちょっと好きにしてみたらいい」
そうした温かい言葉と選択肢をもらえたことが、回復を早めてくれたと渡邊氏は言う。
「校長先生のおかげで、今やるべきことは徹底的に休むことなのだと思うことができ、毎日1回は外で歩くことは課しつつも、ゆっくり過ごすことを心がけました。すると、次第にやっぱり働きたい、子どもの前に立ちたい、教育に携わりたいという思いが自分の内側から募ってきたのです」
手放したのは、「誰かの正解ばかりを追い求めること」
渡邊氏は結果として、1カ月ほどで復職した。別の学校で非常勤講師として働き始め、教員採用試験に合格していたこともあり、翌年の2021年度からはその学校の正規教員となった。休職が長期化しなかったことについて、渡邊氏はこう分析する。
「さまざまな出来事が適応障害の引き金となりましたが、しんどさの本質は自分の軸を持ちながら働くことができなかったことにあった。そこに気付くことができたから復帰できたし、復帰後も順調に働けたのだと思います」
自身の働き方を見つめ直した渡邊氏。再び教員の仕事を続けていくうえで、手放したことがある。それは「誰かの正解ばかりを追い求めること」だ。
「私は初任の頃からずっと『上司がやれと言うから』『先輩がこう言ったから』といった基準で仕事をしてきました。そうした働き方を選んでいるのは自分なのに、私は自分のやりたいことができていないと嘆いていたのです。それに気付いてからは、どんな仕事であれ、私自身がやりたいと思えるよう、理想と現実をすり合わせることにエネルギーをかけるようになりました。子どもたちとの関わり方についても、厳しく管理するような指導は完全に手放し、子どもたちが素直に自分の心の声を出せることを大切にする指導に変わりました」
以前は人間関係にもだいぶ悩んだが、この点に関しても意識が変わったという。
「職員室ではうまくやろうとすることや嫌われないようにすることはやめました。否定され続けるなどしんどいときは、『自分は孤独』『私の考えは受け入れてもらえない』などと思いがちですが、実際はそうじゃない。意外と自分と同じような状況や考え方の人はいて、そうした人を見つけて関わりを深めていくようになりました」
自分の教育観や軸を、自分が認め続けてあげる
渡邊氏は、2022年に産休・育休を取って一旦退職、2023年から非常勤講師として働いている。学校外の活動も増えたが、「フルタイムの正規教員という選択肢を捨てたわけではありません。ご縁を大切に今後も教育に関わり、自分を生かせたら」と話す。
苦しい時期を乗り越えた渡邊氏は、「教員はやはり、自分の教育観や軸を、自分が認め続けてあげることが大事ではないか」と考える。
「いろいろな人間関係がある現場だから、ときには誰かから否定されるかもしれない。状況に応じて柔軟にやり方を変えていくことも必要ですが、それでも自分は何をしたかったのか、子どもたちにどんな未来を見てほしいのかといった信念を磨くことは大切だと思うんです。今何かに悩んでいる人は、1人で抱え込こまず、自分と同じ軸を持った人を学校内やSNSなどで探して関わってほしい。そうすることでしんどさから抜け出せることもあると思うから、私はSNSの発信を続けています」
昨今の精神疾患による休職者は、若手が多い。自身も苦しい初任時代を過ごしてきた渡邊氏は、次のように語る。
「まず若手の先生は、100点をとろうと思わないこと。『今年の自分の注力ポイントはここ』と決めて、段階的に自分のスタイルをつくっていくことが先決です。いろんな先生を俯瞰的に見てみると、誰しも不得手なところがあることがわかるはず。しんどいときは、無理だと思う3歩手前で休むこともこれからは大切なスキルだと思います。学校の仕組みとしては、山形県のように初任者には副担任からスタートさせるのがよいのではないでしょうか。さらに、業務負担が重くない状態は保ちつつ、若手の先生が学べる仕組みを考えていけたらいいのではないかと思います」
労働環境が改善されない中、教員の仕事は大好きで続けたいけれど「しんどい」と思っている教員は、きっと少なくない。そんな教員たちに、渡邊氏はこう語りかける。
「そう思っている時点で、きっと諦めたくないんだと思います。辞めると決めている人は、おそらく続けたいとは微塵も思いません。子どものためにまだやれることがあるのではないか。そうした思いを大切に、自分を責めずに何がしんどいのかを丁寧に見つめ直してほしい。その先に休む、辞めるという選択肢があってもいい。それでもやはり教育の世界だと思ったのなら、自分に合った子どもたちとの関わり方が絶対にあるはずです」
(文:國貞文隆、注記のない写真:渡邊友紀子氏提供)