小学校の過半数が「自校のプール以外」で水泳授業

学校における水泳指導のあり方が、大きな転換点を迎えています。背景には、施設の老朽化、教員負担の過重、気候変動による猛暑、さらには“学び”としての水泳の価値を問い直す動きがあります。

今月、笹川スポーツ財団が公表した「スポーツ振興に関する全自治体調査 2024」によれば、「すべての小学校で水泳指導を実施している」と回答した自治体は93.4%に上ります。

さらに、自校のプール以外の施設での授業の実施方法について複数回答で尋ねたところ、「公共施設等のプールで授業を行っている」が44.1%で最も高く、「自校のプール以外で行っている学校はない」41.7%、「民間事業者に授業を委託している」20.4%と続いています。温水プールなど学校外施設の活用や、民間委託に踏み切る自治体も年々増加傾向にあります。

つまり、小学校でもすでに過半数は自校のプール以外で水泳授業が実施されているという実態が浮かび上がっています。一方で、「すべて未実施」が1.2%、残りも部分的未実施という結果で、実施状況にはかなりの「地域差」が見られることがわかります。

また中学校では小学校よりもさらに実施率が低下します。中学校段階での指導の是非については、今後の議論の的になるでしょう。

危険は「知る」ことで回避できる

水泳指導の「目的」も意見が分かれるところです。学習指導要領に定められた「技能習得」等が主目的である一方で、「水の危険性を知る」「いざというときの身の守り方を身につける」といった「安全確保・自己保全能力の育成(例:着衣泳)」への目的意識も高まってきています。

しかし着衣泳については、プールの水質維持の困難さなどから、学校現場ではなかなか継続的な実施が難しいのが実情です。

例えば、衣類や靴を着用したままプールに入ると、どんなにきれいに洗ったつもりでも繊維くずや泥・砂などの汚れが水中に混入し、濾過装置の目詰まりや塩素の効果低下を招きます。結果として、水が白濁してしまったり異臭が出たりして、その後の通常授業ができなくなることもあります。

こうした管理上のハードルから、多くの学校では「水泳指導の最終日近くに、特定の学年のみ、1回のみ実施」という限定的な形をとらざるをえないのです。

「命を守る水泳」が全国的に行き渡っているとは言いがたいのが現状であり、水辺の事故は「泳げるかどうか」以上に「適切に対処できるか」が生死を分ける局面が多く、こうした知識と判断力を養う指導は重要です。こちらについては、泳力向上とは異なるまた別の手立てを講じる必要があります。

これらのデータが示すのは、水泳指導の「多様化」と「格差」です。どこまでが「必須」で、どこからが「選択」か。その線引きが地域によってあいまいになっている今こそ、議論が必要です。

地域差を前提とした設計を

とはいえ、日本全国で画一的な水泳指導が本当に必要かというと、そこには大きな疑問があります。

海や川の多い地域では、自然と水に親しむ機会が日常にあります。一方で、北海道や新潟のような積雪地帯では、夏に十分な指導時間を確保できず、むしろスキーなど冬季活動のほうが有用性が高いともいえます。

小学校段階でも、すべての自治体が水泳を一律に行う必要があるのか、少なくとも中学校以降は地域や家庭の事情に応じた選択制とすることが現実的でしょう。

泳げることは大切かもしれません。けれども、「使うから必要」というロジックだけでは、現代の教育課程は維持できません。例えば、地理や歴史の学問も、「日常で使うわけではない」かもしれません。しかし、それでも学ぶ意味があるのは、それが教育的価値を持つからです。

水泳指導も同様に、その価値を認めたうえで、安全性・実行可能性・費用対効果を冷静に見直す必要があるのです。

学校現場における人的資源・財政的資源には限界があります。教育活動のすべてを「必要だからやる」としていたら、現場はとっくに破綻しているはずです。

プール管理という“過酷労働”

私自身、十数年間にわたり体育主任を務めてきました。初任から毎夏、プールの水質管理・設備点検・塩素投入・底掃除を、炎天下の中を1人で行っていた経験があります。

松尾英明(まつお・ひであき)
千葉県公立小学校教員
「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小などを経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆のほか、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話などを行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。ブログ「教師の寺子屋」主催。著書に『不親切教師のススメ』『不親切教師はかく語りき』(ともにさくら社)
(写真:松尾氏提供)

プールの水は一度に満水まで入れることができず、数時間かけて少しずつ調整する必要があります。排水の際も、栓を開けすぎれば周囲に迷惑がかかるうえ、水の止め忘れが大きな事故につながります。

塩素管理も容易ではありません。液体塩素は20リットル単位の重たい箱で何十箱と搬入し山積みしたものをきちんと管理せねばなりません。機械室内での蒸発や飛散も多く、決して安全な作業とは言えません。液体塩素が衣服にはねて変色するのは日常茶飯事、皮膚に触れれば炎症を起こす恐れもあります。

また、循環機やフィルターの掃除には特殊な道具や力作業が必要であり、蒸し暑い中で蚊に刺されながら汗だくで作業する、かなりきつい工程です。

さらに近年では、気温の上昇により「熱中症アラート」が頻発し、屋外プールの授業そのものが中止となるケースも珍しくありません。プールサイドは日光を反射して高温になり、火傷を防ぐために水を撒いて冷やす作業も必要で、管理や安全配慮の手間が格段に増しているのが現場の実情です。

この管理業務は、ほかの分掌や担任業務と並行して行われることが多く、放課後の貴重な時間がここに大きく奪われます。排水や増水の作業をしている合間に自分の学級の仕事や事務作業などを行うため、「電話対応などをしているうちにすっかり水のことを忘れて、帰宅してしまっていた」ということも起こりえます。

実際、近年ではこうしたヒューマンエラーが原因で、水を止め忘れてプールからあふれ出してしまい、多額の下水道費用が発生したり、施設に損害が出たりしたケースも報告されています。それにもかかわらず、責任の所在があいまいなまま、現場の教員個人の過失として処理されてしまうという例が少なからず存在します。

「きつい仕事を半強制的にボランティアのように毎日させられ、ミスがあれば責任も自分持ち」という、何とも納得のいかない作業を日々強いられているという実態が全国各地にあるのです。にもかかわらず、この問題がなかなか表面化しない背景には、実際にプール管理に携わった経験を持つ教員が圧倒的に少数であるという事情があります。

これからの水泳指導のあり方

では今後、水泳指導はどうあるべきでしょうか。私は、少なくとも4つのポイントがあるように思います。

第1に、水に潜む危険性を「知る」ことは、命を守るための教育の根幹です。着衣泳や簡易な救助技術など、水辺での自己保全に関する指導は、その意味で非常に有効です。ただし、ここで強調したいのは、泳力の向上それ自体が目的なのではなく、それはあくまでも「命を守る手段の一つ」にすぎないということです。

第2に、地域差を踏まえた柔軟な制度設計が求められます。海辺や河川が多く、水との接触機会が多い地域では、水泳の知識や技能が生活に直結します。

一方で、積雪の多い地域では、夏の指導機会が限られ、むしろスキーなどの冬季安全教育のほうが現実的かつ有効です。水泳を全国一律で必修とするのではなく、とくに中学校以降は地域や学校ごとの裁量を認める方向が現実的でしょう。

第3に、外部委託や中止といった選択肢も、視野に入れるべき時代に入っています。教員の人的リソース、安全管理、コストパフォーマンスのいずれを見ても、限界が来ている学校現場は少なくありません。現実に即して、「やらない」という判断が合理的であるケースも存在します。

とくに近年では、学年が上がるにつれて「水着になるのが恥ずかしい」と感じる子どもも増えており、肌を見せることに対する抵抗感が強まってきています。個人差や性への配慮が求められる中で、水泳指導を強制的に実施することが、かえって子どもたちの心身に負担となる場面も出てきているのです。

そもそも陸上で生活する以上、水泳はすべての人にとっての“必須スキル”ではないという認識が必要です。

第4に、これからの時代に不可欠なのが「ライフジャケットの普及」です。近年、水辺のレジャー中に子どもが命を落とす事故が後を絶ちません。こうした事故を防ぐためには、泳力よりもまず“備え”が重要です。

泳げるかどうかに関係なく、命を守る手段としてのライフジャケット着用は極めて有効であり、学校現場だけでなく、保護者や地域社会と連携してその重要性を広めていく必要があります。すでに一部の市民団体では啓発活動が始まっており、今後は行政レベルでの導入支援も期待されます。

こうした現実を踏まえるならば、もはや水泳指導を「当たり前」とする時代は過ぎつつあるのかもしれません。学校教育の役割とは何か、教員が背負うべき責務はどこまでか――。「水泳指導の見直し」は、教育の本質を問い直す格好の機会でもあります。

地域の事情に応じた柔軟な制度設計、教員への過重負担の軽減、そして「命を守る教育」としての新たな形の水泳指導。それらを教育の持続可能性という視点から再構築していく必要があります。

誰が・何のために・どこまでやるのか。それを丁寧に考えることこそが、今私たちに求められているのではないでしょうか。

(注記のない写真:hamahiro / PIXTA)