こういった「忖度」による弟子の言動や服装の「統一」的演出は、弟子の過剰反応によって生まれたと私は思っている。ただ一方で、池田氏がその“伝統”に乗っかってしまった(あるいは利用した?)という側面もある。そしてそれらの演出が、いつしか池田氏をカリスマ的に持ち上げる結果を生み出した。
統一的な集団行動は、それが形式的なものであれ、独特の快楽を参加者にもたらし、集団的熱狂に人々を巻き込んでいく。『ファシズムの教室』(田野大輔著、大月書店)という本では、「ファシズムの体験学習」という授業を通じて一斉挙手や制服をそろえるなどの集団行動を経験した受講生たちが次第に熱狂に流されていく「さま」が報告されている。
そのうえで著者の田野氏は、集団行動が権威と結びついたときの「変化」に注意を促す。すなわち「彼ら(=生徒たち)は個人としての判断を停止し、指導者の意思の『道具』として行動するようになる」と。こうなる危険が、創価学会の忖度文化にも潜んでいると私は思う。そしてその状態は、池田氏の「一人を大切に」という指針とは正反対のスタンスである。
私は、この相反する二つの要素を抱えた現・創価学会が「一人を大切にする」という視点を外さなければ、現状とは違う未来を迎えることができるのではないかと考えている。それが創価学会の強さの源泉だからだ。
創価学会の動向は世間の注目するところである。池田氏逝去をエポックとした変化はあるのだろうか。これからもよくよく見ていきたい。
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