そこで、さきほどの要素を見直したときに気がついた。AIが「ビビらない」ことは、あまりに重要ではないか。
つまり、人間が自分の働き方や資産の使い方に関する判断をAIに任せると、経済に利潤を提供するはずのリスク回避的な労働者や運用者が、適切なリスクを取るようになってしまうではないか。資本に利潤を提供してくれる「カモ」がいなくなってしまう。
そして、もう一つ変化が生じる。AIが進化し、個人がこれを広く利用できるとすると、稼ぐ能力の主たる源泉である知的な力に「差がつかなくなってしまう」。参加者が皆、藤井八冠よりも強いAIソフトを載せたパソコンを持って来る将棋大会を想像されたい。大会自体が、無意味になる。
「会社は誰のものか?」と考えるのは正しい?
「会社は誰のものか?」という古くからある問いについて考えてみよう。これは、そもそも会社は「もの」ではないから、この問い自体が「カテゴリー・ミステイク」(哲学者ギルバート・ライルの言葉)なのであって、「株主のもの」「社員のもの」「ステークホルダーのもの」、などと考えること自体が愚かだ。
では、会社とは何か。
会社とは、他人を利用し合うことを目的とした人の集まりだ。経営者は労働者を利用するし、労働者もまた経営者を利用するし、会社の中のメンバー同士も営業、総務、財務、人事など、異なるスキルを持ったメンバーをお互いに利用し合う。
利益の獲得自体を集まりの「目的」とするという建て付けで会社を作ることも可能だろうが、もう少し気取って整理させてもらうと、「利益」は会社の存続条件であり、「目的」をより良く達成するために重要な「手段」であるにすぎない。
では、目的とは何だろうか。最終的には、誰を顧客として、どのようなメリットを提供するのかに落ち着くべきものだ。この「事業立地」(経営学者の三品和広氏の用語だったと記憶する)の選択こそが、唯一「戦略」の名に値する経営行為だ。
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