「能力主義社会は幻想」と行動遺伝学者が言う背景 無料塾は教育格差にどう立ち向かうべきか?<後編>
おおた:その点、無料塾はまさに、困ったときはお互い様という助け合いの場だし、いろんな大人がいろんな生き方をしていることを知る場という意味が実はとても大きいんです。それが子どもたちの希望になるんです。
安藤:進学校なんかに行ってしまったら出会えないようなひとたちから直接社会の話を聞くことができそうですよね。
いろんな生き方を知ることが子どもたちの希望になる
おおた:しかもそこにいる大人たちは、損得勘定じゃなくて、善意で来てくれている。そんな価値観や生き方があるんだと、子どもたちは学びます。だからある無料塾の運営者は、私立の進学校に通っているような子どもたちにも無料塾のような学びの場を提供したいと言っていました。
実はそういう子たちこそ、“いい学校”に行って“いい大学”に入って“いい会社”に就職するしか人生の選択肢はないと思い込まされてしまっていたりするので。
安藤:そもそも無料塾は、それを運営するひとがよそで収入を得て生活ができている限り、あるべき教育の姿だと理論的にいえると考えます。なぜなら教育は、生物学的には互恵的利他主義にもとづく動機に根差すものであり、無償で成立するのが自然だからです。
特にヒトの場合、教育の結果得られた知識や技術が個人の利益にのみ還元されるのではなく、公共性をもつものとして機能します。無料であるということは、巡り巡って公益に資することになるはずです。
おおた:教育は公共財だという発想ですね。歴史的な理由もあって、それが日本ではあまり根付いていません。教育の結果得たものを自分のために使うのか、社会のために使うのかという視点の違いは、社会設計に大きく関わると思います。
教育の結果得た学力や学歴を、自分の努力の賜物だと思うひとが多い社会では、それを自分のために使って何が悪いんだという理屈がまかりとおってしまう。
でも行動遺伝学と教育社会学の知見を合わせて知っていると、それが大きな勘違いであるとわかります。学力に重きを置いた能力主義や公正な競争などという幻想を捨てて社会が変わるとしたら、まずはそこからではないでしょうか。
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