「能力主義社会は幻想」と行動遺伝学者が言う背景 無料塾は教育格差にどう立ち向かうべきか?<後編>
安藤:そうです。代わりに、どの領域にもその領域において有能なひとが配置され、その能力をさらに高めるように教育されることが望ましいという意味での能力主義は歓迎されるべきだと思います。
その結果として、どんな能力の持ち主でも社会のどこかでその有能性が発揮され、それによって極端な貧富の差や機会の不平等が生じない社会となっていることが必要だと思います。
おおた:同感です。拙著『ルポ 無料塾』でも、心理学や哲学の独立研究者である山口裕也さんが似たような提案をしてくれています。
安藤:ただ、それは理想論であって現実はそうはいかないよって声も当然聞こえてくるわけです、自分の頭の中で。
教育格差=教育問題ではない
おおた:社会経済的地位に代表される「生まれ」による影響さえ打ち消せれば公正な競争が実現すると思い込んだままだと、そっちに希望を感じちゃうから、いまの社会の現実を変えなければいけないというモチベーションが相対的に抑制されてしまいます。
知能や学力の半分は遺伝で説明できちゃう以上、公正な競争なんてあり得ないんだという事実を直視することで初めて、この社会の現実を変えるほかに道はないんだと背中を押されます。みんながそれに気づけば、変わるんじゃないかと私は考えています。
安藤:僕もです。教育社会学と行動遺伝学とどちらが偉いかではなく、それぞれの知見を持ち寄って、たとえば教育格差がどの程度の幅に収まっていれば許容の範囲かというような建設的な議論ができるといいなと思っています。
おおた:ここまでの話をまとめると、教育格差と経済格差が相互に連鎖するサイクルを断ち切るために有効なのはどうやら、公正な競争を実現することでも教育格差をむりやりゼロにすることでもない。
安藤:学校の成績が悪くても、早くから社会に出て職業的な知識を身につけて立派にやっているひとたちが世の中にはたくさんいます。職業によって収入に大きな差をつけるのではなくて、誰でも幸せに暮らすのに十分な稼ぎが得られる社会にしていければいいと思います。
実際、ちょっと前までみんなが中流だと思っていたのに、いつの間にか格差社会になってしまった。
おおた:その結果、教育格差のような教育段階における差が、社会における上流と下流を分けるクリティカルな分岐点のように見えてしまうようになりました。たぶん、社会における格差が小さければ、教育格差が存在していてもそんなに気にならないはずだと思うんです。
教育格差というと教育問題のように思われがちなんですが、本質は社会の豊かさとか平等性の問題なんだと思います。