「能力主義社会は幻想」と行動遺伝学者が言う背景 無料塾は教育格差にどう立ち向かうべきか?<後編>
安藤:一般的な学校教育のなかで軽視されているような才能をもっているひとたちがそれぞれの持ち場で才能を発揮してくれているから社会は回っているわけです。
だから電車は時間通りに来るし、どこの町にもおいしいラーメン屋さんが1軒くらいはあるし、介護施設もたくさんあるし、保育園だって利用できるし、公衆トイレはきれいだし。いわゆるエリートだけでは社会は回せない。
おおた:だからそれはもう単なる役割分担で、仕事に貴賤なんてないし、どっちが上等な人間かなんて発想自体がナンセンス。どんな仕事に就いても安心して幸せに暮らせるだけのお金をみんながもらえるような社会にしようと思ったら、たまたまお金がたくさん集まるところで仕事をしているひとたちは、余ったお金を社会に還元しなきゃいけない。
その方法の1つが納税です。だから、たくさん納税していたとしても、それは単なる役割分担であって、威張るようなことじゃない。世の中、みんな回り回って持ちつ持たれつなんだから、おしなべてしまえば貢献度の差なんてあるわけがない。
学校生活で学力による序列を内面化してしまっている
安藤:正解! かくいう自分がつねにそう思えているかというと、やっぱりあいつ、ちょっと怠けているんじゃないかと思うことがないとは言えない(笑)。
おおた:あいつ、ただ乗りしてるだけじゃないか、みたいな。
安藤:でも、ただ乗りしているやつが多少いる社会でいいんじゃないかとも思います。僕も時々ただ乗りさせてもらって、ちょっとお目こぼししてくださいよ、みたいな。
おおた:そのおおらかさは大切ですね。そういうゆとりのある社会なら、もっと助け合えて、格差も問題になりにくいと思います。
安藤:アフリカの狩猟採集民族の村がそんな感じでした。世の中のしくみがある意味で透明で、誰もが大人になったら大体こんなことをやって、大体このぐらいの幅で個人差があって、いろんなキャラと能力の差というのもあってということも大体見えていて。それが人間社会の自然な姿だったんじゃないかって、人生観が変わりました。
おおた:でも、現代の日本には、学力が高くないと就けない仕事みたいなものがあって、そういう仕事に就いているひとのほうが上等だと思い込んでいるひとたちが一定数います。9年間とか12年間とかの学校生活の中で、学力による序列を内面化してしまっているのだと思います。
安藤:それも幻想ですよね。