近鉄奈良線「お寺の賽銭で資金調達」伝説は本当か 沿線の宝山寺資料で解き明かす当時の実情
この建設費を賄うための資金調達に、創業期の大軌は苦労することになる。「借入金や社債による調達も検討したが、不況のためにそれも叶わず、株主からの株式払込金収受を進める以外に方法がなかった」(『近畿日本鉄道100年のあゆみ』より)。
そんな中、1913年1月26日に生駒トンネル導坑内で岩盤崩落事故が発生。この事故で大軌に対する評価が悪化し、世間では会社解散の噂も飛び交い株価は大暴落。株主が大軌事務所に押し寄せる騒動にまでなった。
それでも同年4月までに株式払込金300万円の収受が完了。5月と8月には計300万円の社債を年利8%で発行。総額600万円の資金を確保したという。だがこの時すでに建設費として500万円を支出しており、さらなる資金調達を必要とした。
1914年、大軌は優先株式発行を図ったが応募総数に達せず、続いて計画した財団抵当借入も実現しなかった。このため既発社債の償還もままならず、支払猶予公告を出すに至る。まさに近鉄ならぬ「金欠」の危機である。この危機の中でも大軌は1914年4月、現在の近鉄奈良線上本町―奈良間の開業になんとかこぎつけた。
給与支払いに窮してお寺に…
開業したはいいが、問題はその後の運転資金である。参拝客の利用がメインだったため、運賃収入は天気に左右され、「大阪天気軌道」と揶揄されるほど安定しなかった。
そんな中、当時の岩下清周社長はほとんど東京におり、開業直後の1914年11月には辞任してしまった。岩下社長を支えていたとされる七里清介専務も過労から病床に倒れ、創業以来ただ1人残った金森又一郎支配人が矢面に立ち、ほぼ空っぽの金庫を前にして債権者に会社の実情を訴え、支払いの猶予を懇願するという状態だったという。
近鉄『50年のあゆみ』によると、世間では「電車が差し押さえられた」「他社へ身売りか」などの噂が流れ、大軌の信用は地に落ちた。同社は付帯事業として、電車と沿線住民への電力供給を目的に放出で石炭火力発電所を営んでいたが、その日その日に石炭代金を用意できなければ業者から石炭を供給してもらえず、電車の乗車券印刷でさえ、前金でなければ印刷会社は応じなくなったという。
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