日本の学校で詳しく教えない「黒人30万年の歴史」 世界各地、多数の民族にまたがる壮大な歴史
抑圧の時代
アフリカで別なアフリカ人の奴隷となっていた人たちを、ヨーロッパの商人は買い取り、「貨物」として船に積み込み、いわゆる「新世界」へと運んだ。陸揚げされた奴隷は市場で家畜同然に売買され、南北アメリカ大陸やカリブ海の島々で働かされた。最も数が多かったのは今のブラジルだ。
むろん、奴隷たちも黙ってはいなかった。アフリカ西部の港でも、航海中の船内でも、アメリカ大陸に着いてからも必死の抵抗・反抗を続けた。反乱が成功した例もある。イスパニョーラ島の西部(当時フランス領)にいた奴隷たちは1791年に蜂起し、ついに支配者を追い出し、1804年に独立を果たした。現在のハイチである。
その後の半世紀で、欧米の白人たちもようやく、奴隷制が悪であることに気づいた。そして肌の黒い奴隷たちと手をつなぎ、奴隷制廃止に動き始めた。アメリカでは1861年に南北戦争が始まり、1865年に奴隷制反対の北部軍が奴隷制擁護の南部軍を下した。制度上、これで奴隷制は廃止された。
だが喜ぶのはまだ早い。その後も奴隷出身者(解放奴隷)とその子孫への迫害は続いた。アメリカでは、いわゆる「ジム・クロウ法」によって人種隔離が合法化され、黒人差別が制度化された。これに反発する解放奴隷の一部は、アフリカ西岸にできた新生国家リベリアに逃れた。黒人をアフリカ大陸に戻してやろうと考える白人の「善意」で建設された国だが、あいにく昔から現地に住んでいたアフリカ人への配慮を欠いていた。
ヨーロッパ諸国も奴隷制を廃止したが、代わりにサハラ砂漠以南のアフリカで植民地の建設に精を出した。アフリカを植民地として支配し、「劣等」人種の黒人を「文明化」するという新たなフィクションの誕生である。1884~85年には各国の代表がベルリンに集まり、話し合いでアフリカ大陸の分割を決めた。イギリスは西アフリカの広大な地域を取り、ベルギー国王はコンゴを自分の別荘地とした。この会議に参加したアフリカ人はいない。結果、1900年までにアフリカ大陸の90%はヨーロッパ諸国の領土となった。
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