横浜駅焼失や列車転落「関東大震災」神奈川の惨状 甚大な鉄道被害、土石流で海中へ崩落した駅も
市電の復旧が、このように驚異的なスピードで進んだ理由について『八十年史』には以下のように記されている。
「幸いなことに、震災前『3線計画』を実施中だったため、各種の材料が貯蔵されていた。それらが復旧のために使われた。軌道は、陸軍鉄道第一連隊(千葉)所属の工兵約300人が、9日間にわたって復旧工事を急いだ。電線路は、大阪、京都、名古屋の3市から派遣された技手2人、工夫13人が27日間にわたり工事を受け持ってくれた」
文中の「3線計画」とは杉田線と久保町線の建設および本牧線の延長のことである。その後、横浜の復興は、「帝都復興事業」の一環に組み込まれ、市電は既設路線の復旧のみならず、新たな都市計画路線の敷設も進められた。震災から7年後の1930年時点の路線延長は46.4kmにまで伸び、震災前の倍以上の路線網を形成するに至った。
土石流に飲み込まれた線路
関東大震災においては脱線・転覆・焼損等、多数の列車事故が起きたが、中でも最大の事故は、震源地に近い熱海線の根府川駅付近で起きた列車転落事故だった。当時の東海道線は現在の御殿場線ルートであり、現在の東海道線ルート(国府津―小田原―熱海―沼津)は熱海線として建設が進められている最中で、震災前年の1922年に真鶴まで延伸されていた。
この熱海線の根府川駅列車転落事故とはどのようなものだったのか。『鉄道震害調査書』の記述を見てみよう。
「根府川駅に入らんとせし下り旅客列車にして、山崩れのため停車場諸施設と共に海中に墜落し、崩壊土砂に埋没せられて死者111名、傷者13名を出したり」
もう少し丁寧に説明すると、東京発・真鶴行きの下り第109列車が根府川駅ホームに入線しかけたところ、地震によって引き起こされた地滑りによる土石流に遭遇し、脱線転覆。最後部の客車2両を残して駅舎やホームなどの構造物もろとも、約45m下の海面へと転落したのである。
この事故は、あくまでも天災によるものだが、死者数111人(資料によって数字に若干差異がある)というのは、1947年の八高線列車転覆事故(184人)、1951年の桜木町駅電車火災(106人)、1962年の三河島事故(160人)、1963年の鶴見事故(161人)、2005年のJR福知山線脱線事故(107人)にも比肩する鉄道史上の大事故である。
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