いまも進化する「空港アクセス鉄道」の半世紀 成田へは新幹線のほかリニア構想もあった

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JALのHSSTは1985年のつくば科学万博に出展し、時速30kmで会場内を運行した。さらに1989年に開催された横浜博覧会では2両編成のHSST05型が走った。これは鉄道事業法に基づくリニアモーターカーによる日本初の「営業路線」で、美術館駅―シーサイドパーク駅間の515mを運賃600円で運行した。

横浜博覧会 HSST
JALが空港アクセス向けとして開発したHSST。1989年開催の横浜博覧会会場を走る姿(撮影:南正時)

HSSTは結局、空港アクセス鉄道に活用されることはなく、JALは開発からも撤退。だが、その成果は2005年の愛知万博開催時に開業した愛知高速交通「リニモ」に生かされている。

成田空港アクセスの紆余曲折

1978年の成田空港の開港に先駆けて、1973年12月から京成上野―京成成田で運行を開始した特急が京成電鉄の「AE車」と呼ばれた特急車だ。AEは「Airport Express」の頭文字。空港アクセス特急として走り始めたのは、成田空港開港時の1978年5月だった。愛称は「スカイライナー」。現在のスカイライナーは所要時間40分程度だが、当時は京成本線を経由したため60分かかった。

筆者は運行開始直後に渡欧のため「スカイライナー」で成田空港に向かったが、京成本線はとくに都心部は名だたるカーブ路線で車体の揺れが大きく、当時は決して快適な特急とは言えなかった。トイレの便器の消毒液が揺しい揺れと同時にあふれ出てズボンを濡らしたことなど、今となっては黎明期の思い出のひとつだ。

当初はクリーム色と茶色という落ち着いた塗装だったAE車は、1983年から青と赤のストライプ塗装に変えてイメージアップを図った。開業時からしばらくは成田空港駅(現・東成田駅)から空港ターミナルまでバス連絡だったが、1991年3月にはターミナル地下に直接乗り入れ、アクセス鉄道としての機能が大きく向上した。

AE100形
AE車の後継として1990年にデビューしたAE100形。登場時の姿(撮影:南正時)

スカイライナーが大きく飛躍したのは、2010年7月の成田スカイアクセス線開業であろう。北総鉄道の印旛日本医大駅から線路をさらに東へ延ばして成田空港まで直結し、新しく登場した2代目「AE」スカイライナーが在来線最速の最高時速160km運転で、日暮里―成田空港間を最速36分で結んでいる。

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