相鉄「都心直通線」一番得したのはどの鉄道会社? 成り立ちを振り返ると、おぼろげに見えてくる
ところが事情が一変した。バブル崩壊後、1990年代後半から2000年代初頭にかけて鉄道各社も利用者を大きく減らす窮地に見舞われた。その後、大手民鉄全体では2002〜2004年度あたりを底として、2005年度以後は回復を見せた。分けても関東大手は全体傾向より早く回復し始めていた。だが、相鉄だけ戻らなかったのだ。
横浜市は、高度成長時代の重工業都市の面が薄らぎ、臨海地区はみなとみらいを代表とするオフィスや、大型マンションへと再開発された。それは相鉄が、横浜への需要だけを担えば成り立つ時代ではなくなったことを意味する。沿線住民の通勤先は横浜よりも東京都心へ向かう割合の方が高くなっていた。2000年当時、二俣川駅が所在する旭区からの主要通勤先は東京都心3区(千代田・中央・港)が横浜市西区の1.4倍の人数で1位。品川・渋谷・新宿区など周辺への通勤を合わせると東京都心が圧倒的と言えた。
さらに成熟化した沿線は就労者人口が減り、独立する若者世代は都心回帰の傾向となった。これが大きい。都心までの足を便利にして居住者を新陳代謝させない限り今後がないという窮地に立たされ、沿線中央部から都心まで40分台を目指した直結が不可欠となったのだ。2000年以降、相鉄は社運を賭して方向性を一転させた。
武蔵小杉対策に迫られたJR東日本
相鉄はまず、JR東日本に打診した。折から相鉄はJR東日本E231系ベースの10000系導入(2002年)に向けて、関係性を深めていた時期である。話は逸れるが、東武スペーシアの新宿乗り入れは2006年で、これらの当時、JR東日本も従来とは異なる考えが台頭していたと見てよい。
相鉄とJRの直通の接続で最も単純な考えは、横浜駅付近の並走区間となるが、双方とも高頻度の中で平面交差(渡り線)は無理、立体交差も技術的に無理となった。そこでJR東日本から出されたのが、相鉄西谷駅と東海道線貨物線のJR貨物横浜羽沢駅付近を新線で結ぶ現在のルートであった。JR東日本としては利用頻度が少ない貨物線という資源の有効活用になる。この案を相鉄は受け止めた。
そしてJR側の最大の理由は、武蔵小杉対策。2001年12月に運行を開始した湘南新宿ラインは急成長するが、横須賀線と同じ線路を共用するなどで本数は限られる。そこに武蔵小杉駅周辺の再開発を受けた新規停車(2010年3月)に向けてキャパシティ不足が危ぶまれ、受け入れ可能な輸送力として相鉄・新宿間直通電車の設定は必須となった。
他方、2000年、運政審18号答申に改めて「神奈川東部方面線」が二俣川―新横浜―大倉山として登載された。ただ、相鉄として問題は事業費であり、だから距離が短いJR接続から検討を始めたのだろう。これを後押ししたのが2005年に成立、施行される都市鉄道等利便増進法である。
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