相鉄「都心直通線」一番得したのはどの鉄道会社? 成り立ちを振り返ると、おぼろげに見えてくる

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建設中の橋上駅舎の下で発車を待つ横浜行き車両は祝賀マーク付きの20101Fで東急のキャラクター「のるるん」も愛嬌を振りまく(写真:久保田 敦)
鉄道ジャーナル社の協力を得て、『鉄道ジャーナル』2023年6月号「相鉄の未来を拓く?東京都心直通第二幕」を再構成した記事を掲載します。

相鉄新横浜線・東急新横浜線として開業し、建設時は相鉄・JR直通線、相鉄・東急直通線と称されてきたが、さらに鉄道・運輸機構の事業パンフレット等には「神奈川東部方面線」の文字を見る。この名称は生い立ちに深く関わることなので、概略をたどっておきたい。

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現相鉄・東急新横浜線についての公式記録のほぼすべては2000年1月に出された運輸政策審議会答申第18号に「神奈川東部方面線」として登載されたことからスタートしているが、構想の歴史はもっと遡る。

1966年の都市交通審議会答申第9号で、茅ヶ崎―六会付近―二俣川―勝田―東京方面間が整備すべき路線に挙げられた。これが始まりとなる。もちろん、答申に載る以上はそれが提案される必要があるから、水面下ではさらに前史がある。勝田とは現港北ニュータウン内の地名。そして六会付近―二俣川間は相鉄が独力でいずみ野線として二俣川―湘南台間を開業させた。

実らなかった最初の東部方面線

しかし、いずみ野線以外は具体化しない中で、1980年代早々に神奈川県と横浜・川崎の2市が鶴ケ峰から新横浜経由で羽田空港に向けた路線構想を打ち出す。鶴ケ峰は二俣川の隣駅。そして1980年代は副都心化を図る新横浜に地下鉄が開通、新幹線は「ひかり」停車が増え(「のぞみ」は列車自体がない)、羽田は沖合展開事業が行われた時期である。これを受けて、1985年の運政審7号答申で改めて二俣川―鶴ケ峰―新横浜―大倉山と新横浜―川崎臨海部方面の路線が記載された。これが「神奈川東部方面線」と呼ばれた。

1990年代に入り、第三セクター方式での路線新設が検討され、相鉄・東急、そして京急も座についている。羽田への路線として大師線改良延伸が考えられていたためだ。

しかし、この話は実らなかった。1980年代後半はバブルで地価が上昇を続けたため住宅地は郊外に郊外にと広がった。相鉄も自社線内の複々線化を検討するほどの需要があったし、何より基盤とする横浜への利用を手放さなければならない。相鉄ジョイナス、横浜高島屋、地下街で賑わう横浜西口は相鉄が開発したもので、その事業性を損なう話には1990年代終盤まで一貫して乗れなかった。

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