台湾有事なら日本も軍事介入迫られる合意の意味 日米外務・防衛の閣僚会議「2プラス2」真の狙い
次善の策としてアメリカが結成したのが、インドシナをはじめ東南アジアの共産化を阻止する反共同盟である東南アジア条約機構(SEATO)だ。しかし、加盟国のうち東南アジアの国はパキスタン、フィリピン、タイのみで、インドなどの地域大国は参加しなかった。SEATOは実質的には機能せず、アメリカは、ホー・チ・ミン政権に対抗してフランスが南ベトナムにつくらせた傀儡政権を支援して、単独でベトナムへの軍事介入を深めていく。
アメリカは1964年からベトナム北部への戦闘作戦を開始すると同時に、イギリス、日本をはじめとする多くの同盟国にベトナム戦争への協力をたびたび求めたが、南ベトナム派兵に応じたのは韓国、タイ、オーストラリア、ニュージーランドなど数カ国にとどまった。フランスはむしろ「インドシナ中立化構想」を提案して軍事介入に反対し、イギリスも度重なるベトナム和平仲介工作を試みる。
ベトナム戦争は、アメリカの国際的な孤立を招き、同盟国間の信頼関係に疑心暗鬼をもたらした。
イラクを恐れたアメリカ・ブッシュ政権
1990年8月にイラクのフセイン政権がクウェートを軍事侵攻・占領すると、アメリカはただちにイラクを強く非難、イラクとクウェートの海外資産の凍結を行うのと同時に、国連安全保障理事会(安保理)で無条件撤兵要求や経済制裁などの決議を矢継ぎ早に採択させる。当時のジョージ・H・W・ブッシュ(通称「パパ・ブッシュ」)大統領は、米中連絡事務所長や国連大使、副大統領を歴任し、外交に明るかったこともあり、国際世論の反イラク機運を高めることを重視した。
元テキサスの石油業者だったパパ・ブッシュが恐れていたのは、イラクが世界の原油市場をおさえて原油価格を操作し、アメリカとその同盟国の経済に悪影響を及ぼすことだった。パパ・ブッシュの最大の関心事は、イラクがサウジアラビアにも侵攻する可能性だった(そのため、湾岸戦争が始まるとサウジアラビアにアメリカ軍を駐留させ、同国の富豪の息子オサマ・ビン・ラディンに反米テロリストとなる決意をさせることになる)。
パパ・ブッシュ政権はイラクのクウェート侵攻前から軍事介入を検討していたが、アメリカ国内には地域紛争への軍事介入を忌避する「ベトナム戦争症候群」が濃厚に残っていた。世論を反映して1984年には当時の国防長官が、軍事介入の条件として、①特定の戦闘・事態がアメリカの国益にとって重要な場合、②確実な戦闘の勝利の見通しがある場合、③明確な政治・軍事的目標があること、④継続的な再検討と修正が前提、⑤国民と議会の支持、⑥軍事介入は最後の手段、の6点を挙げている。
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